茶碗が飛ぶような「ケンカ」をしたほうが仲直りもサラッとできるんでしょうかねえ。
娘いわく「言ったらいいのに。どうして言わないの?」
何十年も見ていると思い込みも出来てしまうのもあるのでしょうが、言ってもわからないと私のなかで収めようとしてしまう癖が出来上がっているのも確かです。
保険の仕事のときに同僚の女性から罵声を浴びた時も一切反論しなかったのと共通点はありますね。私が悪いことをしたとは思っていなくとも、相手は何かなぜか怒っているのです。怒っている人はその時点ではたいがい聴く耳を持っていません。反論しても無駄だと、私は考えていました。ひたすら嵐が頭の上を通り過ぎるのを待つのみだと。
夫婦も我が家の場合は、「マウンテン派」の連れ合いと理解出来ない怒りは御免被りたいと考える私。この組み合わせがいいのか悪いのかも今更ですけれど。
娘の世代が集まると親世代の夫婦けんかの話題もでるようで、茶碗がとぶようなけんかもあると聴きました。それくらい感情をぶつけられるのを羨ましく思いますわ。それが出来たらってね。
40年もまえの連れ合いの(どんな付き合いかは追求しないまま今に至っているので不明ですが)家庭もある女性のところに電話した時も「怒鳴る。怒り。」の言葉は一切でませんでした。電話をしただけでも多少は驚かれたとは思いますが、私は「真実」が知りたかっただけでした。責めるとか、怒鳴るなどは思いもしていなかったのです。
真実が知りたいと書きましたけれど、実際真実はわからないとも思っていました。自分の中で決着をつけたかったのだと思います。言い訳のようなことを女性は言ってらしたですが「そうですか。」と電話を置きましたので。
1つだけ、「女性もしたたかだな。」とだけ人生勉強しましたね。
その電話をして消化不良のままではありましたが、責めて怒鳴ったとて何も変わらなかったと今でも思っています。人間って責められれば自己防衛に向かうだけじゃないかと。
私の姿勢は基本てきには30歳始めのそのころと変わっていないようです。
その姿勢が可愛くないとも言えますし、いつまでもくすぶる原因ではないかとも思えることはあります。
先日「アサーション」という言葉を知りました。コミュニケーションは話す、聴くで成り立っています。と一言でいってもそう簡単ではないですよね。そのコミュニケーションにおいて相手を傷つけず自分の主張をきちんとするということだそうです。それが出来たら「達人」ですよね❣
感情的に茶碗を投げるケンカがいいのか、だんまりになって「私は貝になりました」はよくないのかと思っても人はそう簡単には変われません。そこがねえ。むずかしいところなんですよねえ。
「私は貝になりました」のままの私ですかねえ。
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