日本の最低賃金が世界の先進国と言われる国のなかで「最低」だと叫ばれています。
確かに入ってくる働く人募集のチラシや、私の働いてきた経験からも高い時給は夢のまた夢でした。そんなものだと諦め気分で「使ってもらうしかない。」と従順に働いていたのです。
ただやはり努力して何らかの学問や、技術を習得した人は高額な報酬を得られるのだろうと漠然と考えていました。
先日40年も前の「終了証書」が2枚出てきたと、連れ合いが納戸の奥から持ってきてくれました。私が完全に忘れていた「コピーライター」と「校正」の通信講座の修了証書でした。
そういえば、そんなのを受けた記憶がぼんやりと浮かんできました。コピーライターと聞くと、糸井重里氏の「おいしい生活」とかが脚光をあびていた時代でもありました。
幼い子供を抱えて、何かしたいと通信講座を受講したのが遠い昔の若かりし私のせめてものできることだったんです。なんの役にも立たずに色あせてホコリをかぶっていた証書2枚。
ハローワークには両手で足りないほど通いましたが、はかばかしい勤め先は見つからず。縁あって働いたのは中小企業のアパレル関係の会社の営業事務と鉄工所の「原価計算事務」の仕事。ハム屋さんのパート事務。生命保険の外交員。大手アパレルのデパートでの販売の仕事。あっ、銀行のパート事務が最初でしたわ。
生命保険の外交員は完全歩合制の時代でしたので、頑張ればお給料がバンと出ました。初めて恐る恐る入った生命保険の会社ではとてもきれいな女性がいらして、ご主人がお医者さんだと耳にしたのです。「えっ、そんな奥様がどうして働いてるの?」と驚いたのですが、医師もいろいろあるそうでして、家で奥様でいるのも耐え難いことがあったようでした。
とはいえ、その医師であるご主人の人脈で彼女はその当時すごい収入を得ていたんです。(ご主人の人脈の話は、私が直接聞いたのではなく、周囲の人からの話です、あくまでも。)
当時はお給料が現金支給でした。彼女のお給料は札束だったので、机の上にお金の入った給料袋がちゃんと立つのだと聴きました!見てはいないですよ。
別の年配の華やかな感じのおばさまはお給料を宝石に変えていらして、何百万円もの宝石を数個持ち歩いているのよと、信じられない話でしたわ。「危なくないのかしら?」と思ったのを覚えています。それだけ時代もいい時代だったのと、またその分大変な思いもしながら保険の外交員として働いていらしたんだと端っこに席を置いていた私は思い出します。東京という大都会の真ん中で営業ウーマンの経験をさせてもらったわけです。たまたまね。
息子の幼稚園の入園式の日に一人の女性の横に座ったのが縁でした。連れ合いの転勤で住んでいた都内の狭いアパート。彼女は戸建てにご両親と一緒の生活でした。その彼女から「ねえ、お小遣い稼ぎをしてみない?」と。
今ならまず怪しい、詐欺の使い走りを想像してしまいますけどね笑
彼女のご主人の同級生が生命保険会社にいらして「おい、お前のかみさんをうちの会社に入れろよ。」とかねがね言われていたことが発端だったんです。それで彼女が初対面の私にどうしてか白羽の矢を当てたんです。私も彼女の見込み通り話に乗ってノコノコと行ったんですから。出会いは不思議なものです。
生命保険会社の研修の最終日、「ではどれだけお給料が欲しいか、金額を書いて提出してください。」と講師に言われまして「15万円」と書いたのはハッキリとおぼえています。40年以上前の話です。15万円はそれなりに高い目標だったんだろうとおぼろげにですが。
それから、エリアを持たされて自転車で工場に「花一輪」の飛び込み営業をしたり、銀座の大手企業の事務所の担当にされたりと目まぐるしく田舎者の私が思いもよらない仕事に明け暮れるようになったのですから。まさに「縁は異なもの」としか言いようがありません。
もちろん以前書きましたが「人のふんどしで商売してるやつが大嫌いだ!」と工場の職人の若い男性に言われて「銀行だって同じでしょ!」と言い返したものの、小雨のなか悔し泪を流しながら自転車で走って帰ったこともありました。ノルマのプレッシャーもありましたし、でもその分成果が見られたときの嬉しさはひとしおでしたねえ。
そんな中でも忘れられないのは町工場の社長さんでした。「花一輪」を置かせてくださいと飛び込んだときから「ああ、いいよ。」と受け入れていただいて、ちょこちょこお伺いするうちに保険会社としての新商品「個人年金」が出たんです。会社の中では「この個人年金を販売しろ!」との至上命令でした。社長さんに個人年金保険のパンフレットをお持ちして説明しました。
何回か話していましたら、「きちんと聞こうじゃないか。一度上司と一緒に来なさい。」と言っていただきまして。男性上司とともにお伺いしました。そうしましたら、一括払いで数百万円という大金を払う契約に入っていただけたんです。その当時は金利も高い時代でしたので、あの個人年金の利回りはよくて納得していただけたんだろうと振り返って思うのですが。
私もそのおかげでボーナスを多くいただきまして、ありがたかった記憶があります。
その後も今も大好きな「きもの」の話をしたら、社長が「内のかみさんが着付けを教えているから、かみさんに教えて貰えばいいだろう。」と奥様に着付けを習いにも通いました。奥様が「そんなにきものが好きだったらきものの学校に行けば?着付けだけじゃなくてきものを縫うのも入っているわよ。」とおっしゃいました。
私はその当時も今もですが、生活にゆとりがないために働いていたのです。仕事をやめて学校にいくゆとりはなくて、始めから無理だと思っていました。お言葉だけはありがたく受け止めて。
そんな身にしみる出会いもあって、都内にいた2年ほどの保険外交員の仕事の結果、目標だった月額15万円のお給料を頂いていました。気がつくと。
人との出会い。目標を持って働くことの意義。成果。多くのことを教えてもらった濃い2年間でした。
狭いアパートの社宅扱いとはいえ家賃も高くて、今住んでいる住まいの頭金も出来てこちらに越してこられたのには、連れ合いの働きと私の無我夢中の保険外交員の仕事の収入もあってのことでした。
子どもたちには留守がちだったことを、詫びないといけないのですが。時折、私は母親失格ではないのかと思うことがあります。仕事の醍醐味の面白さを優先してしまっていましたから。
さて、時給1500円との選挙公約。私の経験では時給で働いた事務員時代を思い返しても、1年経って時給で20円上がるという、そんなものでした。1500円なんて時給の数字はどこから出てくるのよとお聞きしたいですわ。このコロナ禍で疲弊した飲食店や中小の企業では経営を続けていけるのかと頭を抱えておられるのではないかと推測します。
夢のような「絵に書いた餅」はお笑い草です。自分たちの高い給料をまず削ってから言いなさいよと申し上げたくなります。
どれほど、自分の心身を削るように、家庭との両立に悩む低所得の家庭が多いかを知っているのですか?シングルマザーの、またはシングルファザーの生活の大変さも知らないで、耳に心地よいことをしゃっべてるんじゃないわよ!と私は政治家不信の極地に達してしまいます。
まず、自ら楽に走りなさんな!「給料はこんなにいりません、必要経費と家族が食べていける分でいいですから、皆さんのために政治をやらせてください。」というくらいの熱意を見せていただきたいものです。理想論だとは思いながらも、ほんとうに今の若い優秀な人たちは政治家を冷めた目でみているのではないかと想像してしまいます。
しっかり自分たちが保証されている人に苦労している人のキツさが見えますか?
横から連れ合いが「中小企業の話やろ。今苦しい中小企業で時給をあげたら、働く人数減らさなやっていけんやろ。何寝ぼけたこと言うてんねんな。せやから歳費を減らせ言うのに、自分らの歳費は減らしもせんと。ええ加減にせい!」とブツブツ。
自分たちの給与を自分たちで決めるって、これ自体が変でしょ。「は〜い、減らされたくないで〜す。」と反対多数ってなんやねん💢
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