「西武」「そごう」「高島屋」「伊勢丹」「京王」と関西から連れ合いの転勤で埼玉県、都内、千葉県と住まいを移しながら、いろんな仕事をしましたね。
最初が埼玉県熊谷市でした。大阪の社宅住まいのときに「熊谷に転勤になった。」と聴いて「えっ、クマが出るの?」と。まだ21歳で我が事ながら「可愛かった?!返答」をしたものです。全く聴いたこともなく、埼玉県って縁もなくて。そういいながらも着々とよちよち歩きの1歳の娘をつれて引っ越しの準備をしたのだけは覚えています。
約半世紀まえの1月に「からっ風」の吹く熊谷に。
関東弁というか、熊谷なまりの洗礼を受けたのが関東での始まりの1歩。
今でも熊谷なまりが残ったままなのかもしれませんが、まあちゃんぽん言葉になってるんでしょう。4年間過ごしましたね。息子は熊谷で生まれました。
大宮に転勤になって駅前の「ポーラ化粧品」の事務所に自ら飛び込んで「ポーラ化粧品」の販売が、関東での仕事始めでした。1年くらいでしたが、自転車で走り回りながら飛び込みセールスをしたものです。若さゆえの「怖いもの知らず」でしょうか。そこの所長さんが穏やかな男性所長さんで、「原付きバイクの免許をとったら?行動範囲が広がるよ。」と。
「原付きバイク」の免許をとって、慣れるまでには怪我もしましたし、いろんな思い出があります。千葉県まで原付きバイクをもってきていたのですが、どこかの輩に盗まれてしまい、しばらくたってから無惨な(配線がむき出しで)姿で戻ってきました。あのときの気持ちはなんとも痛ましいというかバイクという機械であっても、愛着のあったものでしたので。切なくなったのを覚えています。
今の年齢になって思い返すと、子どもたちも小さかったのに無茶なことをしたものだと振り返りますけれど。ごめんなさい。
「飛び込み営業」の原点はそこにあったんでしょうか。
都内で知り合った女性からのお誘いで保険の営業、千葉県に移り住んでから銀行のパート事務、営業事務、鉄工所での原価計算事務、食品会社での初めてのコンピューターによる請求書作成等のパート事務。ハローワークに何度足を運んだことかしれません。
家を買ってローンという借金を背負ったので、その重荷からなるべく早く開放されたいと必死でした。銀行から何からすべての手続きは私一人でしましたから。その分すべてが私にかかってくる気持ちになっていましたねえ。
保険の外回り営業の壁に突き当たり、デパートでのアパレル販売に転向してから行っていないデパートのほうが殆ど無いほど50歳代は派遣販売員として片道2時間というデパートまで行っていました。
まず立つことがキツくて、それに慣れるまでがなかなかでしたし。もちろんただ立っているだけでなくて、日々「今日は○○円の売上でした。残念。」の日もあれば、忙しくて走り回って一人で「何十万円の売上の日」もあったりとすこぶる刺激的でした。良くも悪くもね。
女性が多い職場で何もないことはなかったですけれど、私は自分が納得できる数字をとりたいと言う思いが勝っていたのかもしれないですね。人を蹴散らすわけでもなく、自分のなかで納得できる一日を過ごすことが一番でした。給料は決して良くはなかったのですが、達成感を得られることが自分のなかでの満足感につながったのを覚えています。
たくさん売れたから「報奨金」が出るわけでもなくてもね。
そうして、あちこちのデパート体験をさせていただきました。以前にもかきましたが、派遣販売員というのは「身分?」が低いようでして。「どこの馬の骨?」扱いも何度となく経験しました。そういうときは「ヒトのフリ見て我がふり正せ」ととらえてきました。そこで気分がわるくても何もできないのですからね。
今、「西武」「そごう」をセブンアイホールディングスが手放すとのこと。
思い出すことはたくさんありますので、また続きを書きますわ。乞うご期待❣ おおげさですかねえ(^_^;)
================
にほんブログ村のランキングに参加中です。いつも応援クリック有難うございます♪