昭和30年代の私の家は家で昼は動力ミシンで洋服を縫い、夜は手縫いで着物を縫って夜なべ仕事をしていた母と、経理畑一筋に働いていた父の収入で私たちきょうだいを育ててくれていたのです。
先日新聞の投稿で「麦飯弁当の思い出」と称した78歳でしたか男性の文章を読んだのですが、なぜかその文章にあった光景が映像のように浮かんできたのです。今朝の明け方に。私の家でも白米に3割ほど麦を混ぜていた時期があったのでボソボソした麦の味を知っています。経済的にだったのかなど聞くこともしませんでした。母は「体にええねんで。」と言っていたように思うのですが。
昨日もうすぐ99歳になる父から「冷凍のウナギが届いたわ。ありがとう。いつも気にかけてくれてな。」と電話がありました。「美味しいといいんやけどな。」と私。私の家の分は買わなかったので。外に出ることが出来ない父なので送ったのです。私たちは食べに出かけられるのですから。めったに行きませんけどね。ウナギは、ね(^.^)
私が子供のころの寒い夜に、仕事から帰ってきた父がコートのポケットから取り出してくれた「あったかい回転焼き」その頃私が暮らす関西の田舎の駅前で売っていたのが「タイ焼き」ではなく「丸い回転焼き」でした。今でも「小豆のあんこ」が大好きな私です。弟も妹も大喜びで食べたものでした。春や秋には「フルーツ味の入ったチョコレート」を。どちらもしょっちゅうではない故の美味しさであり、驚きの嬉しさでしたね。
父も喜ぶ子供の顔見たさに買ってきてくれたのだと、忘れていたそんなささやかなことを思い出させてくれたのは「麦飯弁当」の投稿でした。恥ずかしくて、隠して食べていたのに、遠足で同級生がぶつかってきて弁当箱から転げてこぼれた麦飯を捨てた話でした。母さん、ごめんな。精一杯作ってくれていたのにとその男性は思い出して書いてらしたのです。
井沢八郎さんの「ああ、上野駅」の歌に出てくるのは東北から中学校を卒業して集団就職で上京された方たちの故郷を思う心と、上野駅が出発点だったとの歌です。
皆さん頑張ってらした時代・まさに映画「3丁目の夕日」の東京タワー建設時代からの日本を支えた方々。
ああそれなのに、それなのに、とまた嘆きたくなりそうですけど、まあ横に置いといて。
「貧しさに負けた いいえ 世間に負けた」と昭和枯れすすきの歌が普通に流れて違和感のなかった時代。
気がついたら、平成も終わって令和。森進一さんが年号の題名の歌を歌ってらっしゃいます。西暦では感じない年号の呼び方ならではの哀愁を、今の若い方も感じるのでしょうか。
私は西暦のほうが計算しやすいなとも思ってしまうこの頃です。
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