連れ合いの戸籍の名前を「俗字」だからと「正字」に知らない間に市役所で変更されていた件で、連れ合いの長兄に電話をしたんですわ。私が。
連れ合いのお父さんは第二次世界大戦で中国にて戦死。連れ合いの7歳上の長兄が父親代わりでした。ですので、長兄に連れ合いの名前の漢字の確認をしたいと思って電話をしたのです。
まさに時代の変遷に揺さぶりをかけられたと実感する出来事でもありましたね。戦前に生まれた連れ合いの出生届けは筆で書かれたものだったのか、私にはわからないのですが。
コンピューター管理の時代になるとは予測すらできなかったのは事実でしょう。
長兄の近況がこの電話をきっかけにわかったのです。戦前うまれの連れ合いの長兄にしても、すぐ上の都内に暮らす「オストメイト」になり脳梗塞を発症して失語症のリハビリをしている兄も自分たちのことは「元気だ!」としか言いません。二人の兄たちが前立腺がんだったのを知ったのは結構進行してからでした。
一番下のやんちゃ坊主だった連れ合いは二人の兄たちからは庇護すべき父親の顔を知らない末っ子のままなのでしょうね。心配させることを言ってはこなかったのです。
長兄の妻である義兄嫁はおだやかなよく出来た女性ですので、私はよくしていただいた記憶しかなくて。その義兄嫁さんも最近視力が相当落ちていて外を歩くときは長兄の腕をつかんでいないと歩けないのだと聴いて信じられなかったです。電話の声は明るい若々しい声のままなので余計にです。
その義兄嫁さんが電話で私の連れ合いに「お父さんはもう足がヨタヨタして、ホンマにお爺さんやで。車も危ないからと近くに住む娘が運転しにきてくれてるんや。」と話されたそうです。
車好きは男兄弟3人の共通点です。それも右肩上がりの戦後の成長期の象徴のように感じます。現代の若者の車離れとは真逆の時代に3人兄弟は若く、バリバリと働いて家族を養い、戦争未亡人となった兄弟の母を長兄夫婦は最後まで自宅でみるからとはっきり言ってらしたのを覚えています。義兄嫁さんは昔の田舎の嫁としてどれほど大変だったかと末っ子の妻である私にはできないことだったと常々思ったものでした。
戦後の戦争未亡人が3人の男の子を育てることの困難さはいかほどだったかと。その上につれあいの祖父母も一緒だったのですから、その日々の暮らしをお義母さん一人でいろんな自宅でできる仕事をしながら支えてきた女丈夫だったのです。外に女性が働く場のなかった時代ですので、田舎には特にね。
農家ではなかったですし。まずお米の確保、食べさせることが第一優先事項だった時代。かまどで薪でご飯を炊いていた時代ゆえ、寝る間もけずって働き通しだったお義母さんは精神的にも身体もすこぶる強い女性でした。そのお義母さんあっての現在だと思います。
そのお義母さんに代わって父親代わりだった長兄は学業優秀で教師からも大学進学を勧められたそうですが、自ら断念して就職すると決めたと聴いています。真ん中の兄は奨学金をもらって国立大学をでていますが。日本の長兄は家を継ぐという決まりにそったカタチそのものです。昔の田舎ではね。
豪放に振る舞う長兄でしたが、私はその胸のうちには断念せざるを得なかった若かりし頃の夢が熾火のように残っているのではないかと思うことが時折ありました。学業全般が優秀で主席で高校を卒業したと聴く長兄は外国語大学に行きたいという思いがあったそうです。英語で日記を書き、海外の学生と文通もしていたそうですから。
そんな長兄ももうすぐ85歳に。お義母さんのDNAを受け継ぎ、きちんとご飯を食べさせるという当時の日本の母の多くがそうであったように働き通したお義母さんのおかげもあって頑健な体だった3人の兄弟も寄る年波には逆らえずなのかと、病気のオンパレードに見舞われているのが悔しくてなりません。
ただ言えることは、3人ともにお酒が少々過ぎたとは言えますがね。経済成長とともに日本の企業戦士たちは時代の風潮も「接待」と称しては「宴席」が多かったのもこれまた事実ですから。下戸の方は別ですが、まあ良くお酒を召し上がっていましたねえ。
いまは長兄はお酒も飲んでいないと聴いて、真ん中の兄は少し飲んでいるとか、大丈夫ののかしら?我が連れ合いは飲んでいますね。抗がん剤を一ヶ月に一度点滴しながら。私が連れ合いと一緒に病院へ行っていたときに、医師に「先生、飲酒はしていてもいいんですかね?」と尋ねた際に医師が「・・・」無言でした。「やめたほうがいいです。」とはおっしゃらなかったのです。確か。。なぜかはわかりませんが。
二人のお義兄さんたち、もうしばらくは体調を整えて頑張ってくださいましな❣ 末っ子である連れ合いが頼りにしてきて、いつまでも頼りになるお兄さんなのですから。そう、願っています。
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