蒸気機関車を近くで眺めることができた田んぼは、稲作が終わるとれんげ畑になって格好の遊び場でした。れんげは牛の餌になるのだと知ることもなく。家で牛は飼っていませんでしたが、近所で牛を見た記憶はかすかに残っています。
生まれてから10歳まで暮らした「かまど」と「井戸」と「鶏小屋」と「外のトイレ」があった生家は何十年も前に壊されて、新しく建てられた家には伯父一家が住んでいます。
今空き家になっている家は田んぼだった場所を両親が祖父から貰い受けて、家を建てたものです。私はすでに嫁いでいて、連れ合いの転勤に伴って関東の地で生活していました。ですから、暮らしたことが全くない実家ではありました。
働いていた私は有給などない労働環境ばかりでしたので、帰省できるのはお盆やお正月と混雑するときだけ。それも、デパートの仕事についてからは2人か3人体制の年中無休。お盆もお正月も、人さまのお休みの日は逆に忙しいという状態でした。
必然的に「ふるさと」は遠くに有りて思うものとなりにけり。
そんな「ふるさと」ですが、父は今の空き家と広い土地は唯一の男子である弟に譲ると。
弟は熟年離婚して、外国の若い女性と結婚しました。私はその際の修羅場に嘆き悲しむ母からの泣き声を電話で聞くことの衝撃にこの地で何も出来ず、打ちのめされるばかりでした。受話器をもって膝から崩れ落ちることも何度もありました。
97歳の父がいるからこそ、新幹線に飛び乗って「帰る」場所が父の不在とともに私には無くなります。
弟の若い外国の女性とは一度も会ったこともなく、弟も兄弟として育った頃とは変貌してしまいましたので。いいえ、変貌したのかどうかもわからないと言えるほど疎遠になってしまっていました。
10歳までの「れんげ畑」の思い出だけが、今も蒸気機関車の姿と重なって残る私。
歳を重ねたせいなのか、「レンゲ畑」で作ったれんげのボンボンの冠をおかっぱの頭にのせて遊んでいた10歳の私が、ここにいるのです。
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