中村哲医師はアメリカでの「9.11」の惨事の後のアフガニスタンで、医療だけではなく干ばつによる飢餓対策のためにクナール川から用水路を引くことを決意されたのです。
医療だけでは救えない、生命の源である農業再生のために、土木工学を一から学んで。
米軍による空爆がある中での農業用水路の建設に、干ばつゆえに傭兵やゲリラになっていた農夫たちも用水路を作るために戻ってきていたのだそうです。
「主役は人ではなく大自然である。人はそのおこぼれに与って慎ましい生を得ているに過ぎない。」
「作業地の上空を盛んに米軍のヘリコプターが過ぎていく。彼らは殺すために空を飛び、我々はいきるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが地上にはある。乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。」と黙々と石を背負ってアフガニスタンの民とともに用水路建設のために汗を流された中村医師の言葉。
「水辺で遊ぶ子供たちの笑顔に,はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、我々の特権だ。」と。
あふれる水に笑顔がはじける子供たちの姿と、みつめる中村医師とアフガニスタンの人達の笑顔。「そして、これらが平和の基礎である。」と「ペシャワール会報」に寄せられた中村医師。
完成した用水路も一度ならずも自然の猛威によって破壊されては、作り直されているのです。土木工学を学んだ日本人ボランティアの青年も学ばなかったという、中村医師の福岡の山田堰の知恵をアフガニスタンに応用してようやっと満面の笑みを浮かべた中村医師の不屈の意思の結実です。
その後の銃撃による中村哲医師の思いもよらない死。
工事の間も地元の人の複雑な思惑から嫌がらせなどを受けても、なぜそんなことをするのかと原因を探ろうとされていたと当時の看護師の女性が語っておられます。
「人は愛するに足り 真心は信ずるに足る」と。
中村哲医師の当時10歳の次男の方のご病気を分かっていながら、日本で寄付を集めるための講演に奔走されていた時の苦悩はどれほどのものであったか。その苦悩はアフガニスタンで空襲と飢餓で亡くなる子供たちの親の苦悩につながり、一層身に沁みたのだとも語っていらっしゃいます。
5年近い年月が経とうとも、私はこの録画を折に触れて見直しては胸が熱くなってくるのです。
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