未分類 PR

亡き父と祖父と、戦争の爪痕

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

息子が設定をしてくれて始めた、このブログ。

その息子から「おふくろの子どもの頃のことを、書いてくれよ。」と言われたことがありました。

「私が子どもだった頃は書けないわ。」と返事をしたのでした。

暗いのですから。電球💡が~ とは、おふざけでもなく、実際暗い部屋でしたねぇ。

「わらび餅売りのおっちゃん」が木でできた車を引っ張って、夏の夕暮れ、昔住んでいた家の真ん前に留まるのでした。

早い夕飯が始まろうかとする「ちゃぶ台」の前の2歳か3歳の私はソワソワと、浮足立って。

それを見ていた祖父が「ほれ。」と財布から硬貨を渡してくれるのです。

石のたたきに降りて、走っていって「おっちゃん、これ。」と硬貨を渡して見上げていた「おっちゃん」の手。

薄くそいだ木で作った舟に、大きな網のお玉ですくった「わらび餅」がプルプルと震えて、お砂糖の入った「きな粉」をかける「おっちゃん」の手。

待っている、そのときの嬉しさは今でも思い出せるのですけれど。

もう一つの想い出は~ 夜、ガラス窓越しに覗いていた「大伯父たちが、どうして祖父を置いて家を出るのかと、父を責めている隣室」の音のない世界。

私は10歳でした。

振り返ると、その翌日の朝、トラックに家財を積んで父母と私たち兄弟3人は祖父と伯父を置いて隣町の家に引っ越しをしたのです。

あの夜の「黒く縁どられた、ガラス窓の中の映像」は、暗かった電球💡の下の昔の日本家屋ならではの記憶。

10歳の私がなぜ、そんなところに座って隣室の様子を身じろぎもせず見つめていたのかと、前後の記憶はないのです。

そこに至るまで、着物に割烹着姿の母が泣いていた、おぼろげなセピア色の記憶が、、

今「音楽が大好き♪」と言ってはばからない私は、そこにいなかったのです。

家族で歌ったこともなく、笑いあった想い出もないのですから。

ただ母を守るために、父が家を出たのだと子供心に分かってはいたのです。

60年以上も昔、長男である父が家を出るのは親戚じゅうから責められることだったのですね。まして田舎では。

私にとって祖父は祖父。少々「強面」に見える祖父でしたので、高校生の時に自転車で友人と祖父宅を訪ねた際、黒いサングラスをかけて歩いてくる祖父に「えっツ、あれがおじいちゃん❓」と友人が驚いていたのを覚えています。

若くして街に出て、働いて資金をためて事業を起こして羽振りがいい時代もあったようですが、敗戦により事業も回らなくなって、田舎に帰ってきたようでした。

父は「坊ちゃん」育ちだったらしく、キチンと制服を着た小学生の頃の写真がありましたね。

そんな記憶と共に存在していた父の百年の歳月は、終わりを告げて。

不二家の「フルーツチョコレート」や、寒い冬にホカホカあったかい「回転焼き」が出てきた父のポケットの想い出が不意に思い出されて、、

高齢になった祖父は、引っ越した隣町の私たちの家を訪れるようになったようでしたが、私は既に結婚によって家を出ていて逢うことは叶いませんでした。

人はそれぞれに足跡を残して次の世代へと繋げていくのですね。

父は学校(今の大学)卒業後の就職先は決まっていたのだと聞きました。それが、学徒出陣の掛け声によって兵役に。敗戦後、日本は様変わりして、祖父と父は暮らしていた街を離れて田舎に。

戦争の爪痕は深く残り、人生の軌道を変えるのだと思うとき、「平和」への思いを強くするのです。

亡き祖父と父に。

================
にほんブログ村「団塊の世代」カテゴリーのランキングと
人気ブログランキング「日記(70代)」に参加中です。
いつも応援クリック有難うございます♪

にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ
日記・雑談(70歳代)ランキング

 

 

 

 

 

 

 

 

ABOUT ME
audreyh0504
自己紹介 もうすぐ73歳に 関西から半世紀以上前に関東へ 連れ合いが突然関東への転勤を命じられ 埼玉県や都内に住んで 今は千葉県 子ども二人はは関東育ち 関西弁は当然のこと関東弁は仕事がらですが いまだイントネーションは直りません

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA