終末について考え始めて、余計に思うのですが。
普段の生活のなかでは全く宗教は根付いていません。
私の大好きなイタリアの映像を観ていますと、街のあちこちにマリア像があったり、日本では単にアクセサリーと見ている十字架♰のネックレスはクリスチャンの方には重要なものだとわかりますし。
お正月に、レジャーのようにお寺や神社に足を運んだり、七五三や、厄除けのお願いで出向いてきたなど、勝手なときだけ「困った時の神頼み」式の宗教感しか持っていないのです。
日本はそうした意味において、ありがたい国だと思っていました。八百万の神さまがいらして、おおらかで。
新興宗教などは論外でしたし。
先日電話で話した関東圏生まれの友人は「ご主人の家の宗派は何?同じ宗派のお寺さんでないとご先祖様に逢えないのよ。」と。
正直驚きでした。そんなこと考えたことがなくて。
でもお義姉さんと電話で話してみたら、「私も知らないのよ。田舎で暮らしていたら、言われるのかもしれないけどね。こんな風に関東で暮らしてきてるんだから、そんなに気にしないでもいいんじゃないかしらね。」と。
お義兄さん夫婦が契約していらしたところは「宗教問わず」でしたわ。
ある意味、気が楽になったのです。まだ子どもたちと話が出来ていませんけれど。ですが、「永代供養なのよ。」とお義姉さん。これまた、普段お経もあげたことがないのに、永代供養ねえと首をかしげている私がいます。
中学生の頃、母方の祖母の家でいとこのお姉ちゃんが聖書を読んでいて、なんとなく「オシャレ」な感じがしたのは覚えています。どうして読んでいたのかは知らないままですけど。
その後クリスチャンになったとも聞いてなくて。
その影響かどうかは不明ですが、若い頃に遠藤周作氏の「沈黙」のハードカバーを買って読んだ衝撃は残っています。その頃は遠藤周作氏の著書を読み漁っていましたっけ。
日本はそういった意味でも「不思議の国」なのかも。
中国で戦死した連れ合いの父の遺骨の箱には「石ころ」がひとつ入っていただけだと、聞いていますので。亡くなった方の魂は無限の宙にあって、手を合わせて語りかければ届いているのではと、根拠なく思ってきていましたので。
都合の良い解釈でしょうかねえ。
「ヒジャブ」を巻いた女性をポツポツこの近所でも見かけますが、「どういう事情で日本にいらしたのかしら❓」と思うだけで、それ以上何もなく通り過ぎていますし。
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