「終活」は進めていますが、これもやはり母がずっと縫ってきた「きもの」が残っているんです。
母は洋服も洋装店の下請けとしてミシンと手で作りながら、嫁入り衣装の「きもの」母は私が高校生の時に、まず喪服をと手縫いで冬用と夏用を縫い上げていました。関西ではまず喪服を縫うのだとは母が言っていたのです。嫁入りのときに持っていく「きもの」をご近所さんから頼まれて縫っていたものでした。まだそういう時代だったのです。
夜なべ仕事で、一針一針手縫いです。「夜に黒いきものは見づらいから、大変や。」と老眼鏡をかけながらチクチクと縫っていたのを覚えています。
そんな母でも「一番初めにはさみを入れるときが怖いんや。」とも言っていたものでした。そこで間違えると職人さんが織られた、価格も高い絹織物がおじゃんになってしまうからです。
母自身も「きもの」が好きでした。デパートまで出かけて反物を買ってきては自分が着るきものもたくさん縫いました。とにかく器用な人でした。洋装・きものとどちらもプロでしたから。
おのずと私は「きものも着たい」とお正月など「はれの日」には下手なりに着ていました。母は自分で「きもの」を着れる年代でありましたが、私は教わらずに家を出てしまいましたので。
成人式には「きもの」を着ずにツイードのスーツ(それも母の作ったスーツ)で行った私に「私が縫うから振袖があるけど。持って無い人もおってんやで。」と母は呆れていましたね。大人げない「20歳の理由なき反抗」?!だったのでしょうか。それにしても自分のことながら、振袖を着なかった理由は忘れましたわ。
今住んでいるところで、着付けの先生に出会ってコロナ禍前まで着付けを教わっていました。先生いわく「きものは日本の民族衣装なんだから、着ていきたいわよね。」と。
先生はさすがにきれいに着ていらっしゃるので、見惚れてしまうのです。ということは、洋服と違って「きもの」は技術が必要だということになります。これもまた先生はおっしゃいました。「昔は普段着として着る物だったから、丈も短めに動きやすくササっときていたんだけどね。今はやっぱりオシャレに着たいわよね。」と。
ハードルが高いですかしらねえ。ですが、民族衣装なのです。でも「きもの」を縫う方も減っているのではないでしょうか。そんな「きもの」も引き取ってもらうのに「重さでまとめて、はい、○○円です。」じゃ、悲しくなってしまいます。
日本の代名詞でもある「うるし」や、手すき和紙なども継承する職人さんが減っていると聞きます。
正倉院展など開催されて、見学するのみになって「きれいねえ!」と感嘆して終わり。
とはいえ、職人さんの丁寧な仕事、気が遠くなるような手間のかかる作業には根気がいりますものねえ。
私が保険外交員として働いていた頃に、京都の西陣から「きもの」の反物や帯をもって販売に見えたことが一度だけありました。その折に一目ぼれして購入した「きもの」の反物は、黒地に桜の花が螺鈿で舞っているのです「これぞ日本」
もちろん国宝級の値段ではありません。そんなに高くては「高嶺の花」で手も出ませんので。ですが、私的には「素敵なきもの」でした。
ドレスに仕立て直そうと見積もりに出したら「螺鈿じゃミシンがかけられません。」と言われてしまい、眠っていました。長い間。
今その「きもの」は娘の友人の女性の手元にあります。海外に住んでいる彼女はきれいに着てくださっていて、「きもの」が生きているとありがたく思っています。日本の「桜」が。
一針一針手縫いの民族衣装。いつまで生き残ってほしいものです。「うるし」の工芸品や、手すき和紙、まだまだたくさんある日本の文化も同様ですよね。
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