今は亡き母は私が生まれる前から、独学で洋裁を、「立派なおひげ」の男性の先生から着物の縫い方を教わっていました。
昔の先生の教え方は厳しかったようで、「ものさしでピシャと叩かれながら、教わったんやで。せやから、芸者さんの着るきものも縫えるんや。」と話していました。
まさに職人の域に達していた母でした。
昼は動力ミシンの音を響かせて、町の洋装店からの依頼やご近所の方から頼まれて洋服を縫いあげて。
夜はお針箱を出してきて手縫いでチクチクとひたすら手を休めることなく、「きもの」を縫っていたものでした。
そんな姿を見て育ったので、自然と洋服と「きもの」に関心が深まって。
さて、少しづつ増えていた「きもの」もコロナ禍になる前は着て出かけていたのですが。
今は箪笥のなかに眠ったまま。娘が「きもの」に関心が全くないので、残しても詮無いことに。
されど、お蚕さんから糸を紡ぎ、機織り仕事で反物になり、また人の手で縫い上げられた「きもの」をゴミのようには扱えないものです。
年月は容赦なく流れていきます。
私の体が動くうちに、民族衣装の「きもの」が生き残る場所に移してあげたいと模索しています。
母が母自身のために縫い貯めた「きもの」は箪笥3つに入って眠ったまま数十年。母が「着たい」と思って縫ったであろう「きもの」たちが生かされていないのが無念でならない私なのです。