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最後になるかもしれない義兄を見舞って

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昨日の朝、連れ合いのガラケー携帯の電話の着信音が響きました。

ご無沙汰している連れ合いの友人かしらと考えながら、電話している声のトーンが違うことに気がついて。

8月初めにホスピスに近い施設に入った義兄の奥さんである義理の姉のようでしたので、連れ合いの様子をうかがって私も固まってしまっていました。

案じていた通り「どうも危ないかもしれないので、来られるのなら来てもらえますか。暑いけれどね。」と義姉。

施設に入られてから「お義兄さんが〇〇か。来てくれたのか。」と分かるあいだに見舞いにいかないとダメだからねと、連れ合いに2~3度言いながらも「暑い!」「スーパーに買い物」などと日々の些末なことに流されて。気がついたら3週間も経っていたのです。

行ったことのない所なので、乗換案内で調べていたのを再度検索してから電車に飛び乗るために駅まで。都内は不案内な私です。連れ合いも都内は仕事のために車で走ってはいたのですけど、電車はねえ。

都バスに乗るのもほとんど初めて。30年ほどまえに私の脳神経外科の病院が都内でしたので、一度だけ都バスに乗りましたっけ。

たどり着くと、痩せて意識ももうろうとして、ベッドに伏せておられるお義兄さんが。お義姉さんはもともと小柄な方でしたが、少しお痩せになって待っていてくださいました。

「ついこの前までコロナで部屋に入れなかったのよ。」とお義姉さん。お子さんたちからも「千葉県のおじさんに連絡した方がいいんじゃない。」と声がでていたそうでした。

連れ合いのマスクを外して、「大きな声で話しかけてあげて。手も握ってあげて。」と私。子どもの頃には二人で段ボールで作った将棋で勝負をしては「待った。」「待たない。」でケンカをしたのが強い思い出のようです。

最初から段ボールではなくて、喧嘩の度にお義母さんが「そんなにけんかをするならやめなさい!」と縁側の前の溝に投げてしまわれたそうで、仕方なく、かつ性懲りもなく段ボールで駒を作っては、将棋をしてたんやと懐かしそうに話していたものでした。

お義兄さんはいくつの頃かひもじくて、生のサツマイモをかじったことがあるとお義姉さんは聞いたことがあると。

4歳下の連れ合いはお義母さんが「駄菓子屋」を生業にされていたころに「つまみ食い」をしていたというのですから、利ザヤの小さいお菓子を食べる親不孝でやんちゃな三男坊主だったのです。

戦死した父親に一度も会うことのなかった三男坊主をどこか不憫に思う気持ちがお義兄さんにはあったのでしょうか。風船を膨らまそうとしていて、一瞬吸い込んでしまい喉をふさいでしまった三男坊主の喉に指を突っ込んで風船を掴みだしてくださったのもお義兄さんだったと。命の恩人です。

父なき子3人と必死に働いたお母さんの頑張りで戦後を生き抜いてこられたのです。口数の少ない理系の繊細な人、それが私の感じていたお義兄さんの印象。

2時間いる間、胸の鼓動がはっきりわかる時と、胸がほとんど動かないような状態を繰り返し。でも「ああ、弟が来てくれたんだ。」と目を見張って口元も嬉しそうにされたのです。お義兄さんの声はかすれて声にならなくて聴きとれなかったんですけれど、うれしそうなお義兄さんの表情をみてお義姉さんも繰り返し「嬉しそうだったわね。」と言っていらしたので「来てよかった!お義兄さんに弟の顔が分かってよかった。」と。

若いころはサッカー、リタイア後はテニスも長く続けていらしたスポーツ青年だったお義兄さん、84歳。

 もう少し命の灯をともし続けてくださいね。千葉から写真のお義父さんにお願いしていますから。「まだ呼ばないであげてくださいね。お義父さん。」

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