気がついたらこの歳になっていました。がデパートで働いていたときの休憩時間に「この前交通事故があってね、ホームレスかと思うほどボロボロの格好をしていた中年の女性が国道で事故にあったんだって。そしたら、持っていた布で出来た俗に「ズタ袋」という袋の中に2千万円入っていたんだってさ!で、結局亡くなってしまって、ほとんどその親に寄り付かなかった不良娘にその2千万円がいくことになったんだってよ。どうして、お金を持っていたんだったら、もう少し違う生き方をしなかったのかしらね?少しは服装に気を使うとか、食べたいものをたべるとかね。」と。
「ほんとにねえ。」と答えながら、理解できるわけもなくて、それでその話は終わりました。昔の話です。
先日、何かのテレビ番組で若い男性が話されていたのがこの話に似通っていて、また少し違いもあるのですが。その男性いわく「先輩の方が真面目な方で、一生懸命に働いてお金も貯まり、退職したらあんなことをしたい、こんなこともするんだと楽しそうに話していらしたんですよ。それで、退職されて3週間もたたないうちに心臓麻痺で亡くなったんです!僕はそれを聞いてから、今したいことを出来る範囲ですることに決めたんです。先はどうなるか、誰にもわからないんですからね。」と。
今日も関西の友人から「友だちのご主人が亡くなったんやけど、この時期やから家族だけで葬儀は済ませるから、落ち着いてからね。とメールがきたんよ。65歳やて早いやろ!」とラインメールがきました。65歳は早すぎるわと私も返信したんですけど。
せやけど、ちょうどええ頃合いにお迎えがくるとは、これも誰にもわからないことで。必ず来るのはわかっていても、現役で働いているときはいろんな制約もあり、自分自身振り返ってみても子育てや仕事に忙しくユックリ考える時間もなかったかなあと。ただ、私はノルマのある仕事のプレッシャーがきつかったからか、なぜか「死」というものを漠然とながら考えていましたね。それで、40歳代で「リビングウェル」や「アイバンク」「検体」に関心を持って今もアイバンクには登録したままです。時折大学病院から封筒が届いて再認識させられます。
お墓もその頃から「一切不要」と。お墓の必要性を全く感じませんでした。そんなお金をつぎ込んでなんになるんだろうとしか思えませんでした。土に帰ればいいと思っていました。私の中では「それはすべて心の問題」だと。その亡くなった人を偲ぶ心があれば、今仏壇もない我が家では遺影を置いて、お花をとお水を供えて手をあわせています。感謝と「導いてください。」と胸の中で話しかけています。
私はイタリアへの連れ合いと娘の3人旅で娘に言われた「お母さんて無邪気ね。」60歳代にして「無邪気」と評されるのがどうなんでしょうか。娘は普段おしゃべりではなく、少々辛口コメントを出してくるタイプです。私は悪く言えば「わがまま」良く言えば「無邪気」なのかもしれませんね。娘は計画を立てて、予算を決めてという実務派ですかね。でも、たかだか「ビスタチオのジェラート」があまりに美味しいからと3度ほど食べただけで、娘に言われたのですよ。あの味はイタリアでしか味わえないもの。日本でそれなりのお店で食べてもダメでしたわ。「ジェラート」を食べるためだけに航空券は買えないので。
だから、蓄えもある訳もなく、相続税が〜資産管理Oh no!関係なしですね。子どもたちには迷惑はかけたくないとは思っていますが、このままの「無邪気」な私ですすむんですかね。「無邪気」はときとして「悪意」にとられることもあるのも承知の上でね。受け取る人次第で変わるものなので。
「あのおふくろには参ったよな!」と子どもたちに言われるのか、草場の陰からみられますかねえ?
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