池袋の、あの人通りの多い街を猛スピードで暴走して若いお母さんと幼い女の子の命を一瞬に奪い、9人の方に怪我を負わせなながら今もって「自分のせいじゃない。車の不備だ。」と言い続ける、元〜とずっと肩書をつけて言われる90歳の男性。
事故が起きた報道の初めからずっと肩書をつけて名前が言われ続けています。肩書がどうして必要なのかと不思議に思い続けてきました。肩書になんの意味があるのかと。人を殺しても、肩書があると免除されるのでしょうか。
肩書に人はひれ伏して、家族を殺されても我慢しなければいけないのか?と錯覚を起こしてしまうほどに、肩書をつけ続けていた報道の姿勢にも疑問を持ちました。
それじゃ、まるでお殿様の馬に蹴られて死んでもどうにもならなかった時代に逆戻りじゃないですか。21世紀の今、どうしてこんなことがまかり通るのでしょうか。
責任をとらないですむ人種って今現代の日本にはいるのでしょうか。昨今の報道をみていると、お偉い方たちは恫喝しようとも、人を自殺に追い込もうとも責任をとっているようにはみえません。直近では「トヨタ」の社長がパワハラによって自殺された若い社員のご遺族に謝罪されたとの報道がありましたが、失われた命は戻りません。
これを書いている今、「国が[赤木ファイル]を遺族側に開示 森友・決済文書改ざん」とヤフーニュースで入ってきました。
権力を持った人間が自分のやった悪事をどうにかして隠して保身に走り、そのために人ひとりが苦悩した挙げ句に自死を選ぶという悲惨な結果に。
池袋の事故の後で「上級国民」と聞いたことのない文字を見ました。初めて、国民に「上級」があるのかと愕然としました。江戸時代に「士農工商」というのがあったことは知ってはいましたが。ときの徳川幕府に都合のよいように作ったものだとの認識しかありませんでしたから。
「貧乏人は麦を食え!」と言った首相もいたようですが、その言葉にあらわれているまま、現代まで続いているということでしょうか。麦すら食べられなくて、今健康にいいとあえて白米に混ぜて食べる「ひえ」や「粟」という雑穀まで食べ尽くして餓死寸前にまで追い詰められたときに農民は「一揆」を起こしたのだと思います。
戦後まもなく東京近辺では食べるものがなくなって「飯米獲得人民大会(食料メーデー)」に25万人が参加した歴史を最近知りました。私の生まれる前の、私の生まれ育った田舎からは遠い東京のことですし歴史の勉強でもでてこなかったと思います。餓死の危機が身に迫ると人々はさすがに立ち上がるのだと。
貧富の差はますます広がるばかりです。勉強ができてエリートになったら、お金儲けが上手くてお金持ちになったら「上級国民」ですか。なんでも許されると免罪符が与えられるのでしょうか。私には理解できません。
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