義兄の訃報を聞いてから10日が経ちました。
6年前の我が連れ合いの腎臓がん摘出手術の後、東京を横断する電車に乗って二度お見舞いに来てくださったときの様子を突然思い出したのです。
私は毎日洗濯物の取り換えのために病院へ通っていましたので、二度目に面会室でお義兄さんの顔が見えたときは驚いたのを覚えています。
「暇だからな。」とポツリと一言。
本当に静かな人でした。
私の兄じゃないのに、涙がこみあげてくるのは連れ合いから聞いていた兄弟のたくさんのエピソードを思い出すからでしょうか。「兄貴はバク転が出来て、びっくりした!」や「物理の宿題の本1冊を出したら、ササっと書いてくれて100点やった。」などなど。
数十年も前にお盆の帰省時に3人兄弟が揃ったことがありました。
一番上の義兄は自宅の近辺のスナックで行きつけのお店がありました。そのお店に行ってカウンターで飲みながらカラオケを♪歌好きな私も座って歌いました。
長兄が歌うと少し音が外れていて、真ん中のお義兄さんが「兄貴、歌うのやめろよ。」と兄弟ならではの遠慮のない言葉。長兄と我が連れ合いは演歌一筋。真ん中の兄は演歌を歌わない人でした。
私から見ても、長兄と連れ合いはよく似ているのですが、真ん中の兄は全く違うタイプなのでした。
6年前のお見舞いに来てくださった折りの兄と弟の会話がどうだったのかは知らないのですが。口数少なく、弟の顔を見ておられる顔が静かに微笑んでいらしたような。家にいても心配だからと、ご自身も前立腺がんの治療をされていたのに弟の顔を見るために来てくださったので、少し痩せていらしたお兄さんでした。
私の想いでしかないのですけれど、お兄さんの目にはやんちゃで遊びに夢中だった弟の面影がそのままだったのではないかと。
学校から帰るなり、家の玄関先にランドセルを投げ込んで野山へ友達と遊びに出かけた弟を夕暮れ近い時間に「お~い。飯だぞー。」と呼びに来ていたんや、兄貴が。。と何度連れ合いから聞いたことでしょうか。
戦死されたお義父さんには逢うことはかないませんでしたが、まるで二人の父親がいるような三男坊だったと思えるのです。連れ合いは幸せな弟です。長兄に宿題を頼むと『勉強は自分でするもんや。』と叱られたそうで。眞の父親代わりの長兄と、一緒に将棋を指してケンカになった真ん中の兄とに守られてきたんですもの。
お兄さん、もうお逢いすることができないと想うと、涙がこぼれてきます。
私にとっても「兄貴」でした。言葉を交わしたことはほとんどないのに。
私にも「兄貴」と呼ばせてくださいね。あんな「兄貴」がいたらよかったと思える人でしたから。「暮らしは大丈夫か。やっていけるんか。」といつも弟を気にかけてくだすった兄貴です。
「コンドルが飛んでいく」がとボソッと口にされたのを私は聞き逃さなかったんです。お兄さんは数年間ブラジルで単身赴任生活をされていらしたからですよね。
お好きだったウイスキーを少し飲んでいらっしゃいますか?コンドルのように悠々と大空を飛びながら、見守ってくださっているのを信じています。
夜は闇と静寂の中で、走馬灯のようによみがえってくるので、淋しくて。。
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