昨日「阪神タイガース優勝、よかったね!」と電話をかけたのですが。ひとしきり子供のころから阪神ファンやった思い出の話が。。「母方の叔父さんのところに泊まって、おにぎりを作ってもらって、それをもって甲子園に連れて行ってもろうたんや。」と、知らない話ばかり。
「甲子園はなあ、蔦が絡まっててな。大きい球場やった。夜は緑がライトに映えてきれいやったわ。」と。私は甲子園球場に行ったことがないのです。子どものころに焼き付いた美しい甲子園へと気持ちが飛んでいっているかのような話し方でした。そうして、日本は戦争へと突入していって。
学徒出陣で鳥取県に行ったのだと語り始めたのです。初めて聞く話でした。「それも12月でな、周りは雪が積もっとるしな。寒かったなあ!火の気も何にもないしな。藁を厚めの木綿でくるんだ上に毛布が2枚や。」そうやったんや。ようそんな寒さに耐えはったなあ!
「古参兵は難癖付けて、連帯責任や言うてな。自分の手でたたくと手が痛いから言うて、革のスリッパで新兵をバンバン殴るんや。京都大学の人が体が弱かったんやな。亡くなったんや。忘れもせんわ。」と、初めて父の口から。
「お父ちゃんも強い体やなかったのになあ。よう頑張れたなあ。」と私。
「この歳まで生きるといろいろあったなあ。」としみじみした口調になっていました。
「若いころ活動写真や映画好きやったやろ?また映画館で見せてあげられたらと、思ったりしたけど。見たいのがないかなあ?」という私に「片岡千恵蔵、嵐勘十郎のチャンバラとか、西部劇も見たでえ。いっぱいの人で立ち見やで。小学生の時は背が低いからな、見えへんかった。ぎゅうぎゅうの人でなあ。他に楽しみがない時代やったからなあ。」「お金がないから映画館まで40分くらい歩いて行ったもんやった。」と。
走馬灯のように父の脳裏に映像が浮かんできたのでしょう。子どものころから、中学時代(今の高校)や高校生(今の大学)のころの野球と映画と、その後の戦争時代のこと。
これを書きながら、体が弱かったゆえに内地で命を落とされた未来ある京都大学の学生さんのことを思うと、胸がつまってくるのです。
戦争による死はこんなところにも埋もれているのです。戦死でもなく、どれほど無念で苦しかったことでしょうと。その青年のご両親の悲しみも。
こんな話を聞いて、阪神の優勝で歓喜に沸く今の日本に生きていることの有り難さを思い、電話を切ったのです。「気イつけてなあ。まだ暑いから。」と。
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