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現場で働いて得た多くのもの

green trees near seashore under blue sky
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私の仕事はいつも現場しかありませんでした。結婚する前の金融機関での仕事は高卒で2年半足らず。まだコンピューターもない頃のことです。あまり大した記憶はなく終わりました。

結婚して2年足らずで連れ合いに大阪の営業所から埼玉県への転勤辞令がでました。

夏の暑さと、冬のからっ風で名高い熊谷で4年間。1歳の娘を連れて行った熊谷で息子が生まれて育児に追われる日々でした。その後大宮で2年というふうに転勤族で関東を移動しました。大宮に移って何が私を突き動かしたのか、自ら駅前のPOLA化粧品の営業所に「働きたいです。」と飛び込んだのです。

まさに今思えば「無鉄砲」極まりない行動でした。幼いこどもがいるというのに、です。

自転車にPOLAの化粧品がつまっている白いカバンを載せて、飛び込みのためにインターホンを押す日々でした。ときにはバンに数人乗って田舎の方に出向いて、車から降ろされて「3時にここで車に乗るから。」とその間飛び込みもしました。

あの頃、40年も前のPOLAは高級化粧品でした。そんなに売れるはずもありません。「一つ売れた!」とたまに嬉しくなる程度。振り返ると、そこからが私の未知の営業の仕事の始まりでした。

一度お蕎麦屋さんでお昼をと入った日、隣のテーブルに50歳くらいだったか女性が一人で食べてらしたのです。POLAのカバンはすぐ分かりますよね。親しげに話しかけられて、「クリーム(だったか?もう忘れましたけれど)を一つもらおうかしら。」と売れていない私は「えっ!」と前のめりになりました。結局、「避妊具」販売をしている女性だったんですわ。

事務所に帰って、嘘もつけない私がこの話をしたら男性所長や事務員さんも一同大爆笑に^^; 「やられたたな。〇〇さん。」と所長。まだまだ若かった私がベテラン女性にしてやられた苦笑いの思い出です。初公開版!1年で連れ合いが転勤になり、POLAはおしまいに。その1年間で一度だけPOLAのセット数万円が売れました。飛び込みでね。羽が生えたような心持ちで自転車に乗って事務所に帰ったのを忘れることはありません。

生命保険の外交員の仕事はひょんなきっかけから都内で始まり、銀座の近くの企業も持たされながら、自分でも飛び込みは続けていました。町工場の男性に「人のふんどしで仕事をするやつは嫌いなんだ!」と言葉を投げつけられて「銀行だって同じじゃないですか。」と言葉を返したものの、悔し涙をこらえながら小雨の中を自転車で事務所へと急いだのも都内での経験です。

今の地に越して来るときに一度は止めた生命保険の仕事でした。が、なんの縁だかお誘いを受けて同じ生命保険会社にまた入ったのです。

それまでの間には、銀行のパート事務(窓口のすぐ後ろでの通帳の機械入力の仕事でした。すでにコンピューター化されていましたが研修もなく、ぶっつけ本番で緊張の連続でした。)や、部品工場の原価計算の時給日給の仕事。食品会社の営業事務もパート。コンピューターによる在庫管理、請求書作成等、当然と言っていいほど高くはない時給の仕事でした。その上に、古参のパート女性のいじめにもあいました。

生命保険の仕事も全て必死だったのだけは記憶に残っています。来る日も来る日も知らないお宅のインターホンを鳴らし続けて、保険会社の事務所に帰れば与えられたエリアの加入者のお宅に電話をかけることの連続でした。

ですが、いろんな体験をさせていただいて今の私があります。子どもたちには出来の悪い親だと思って心の中でわびていますけれど。

現場で働くといろんな多くのことが見えてきて、理不尽なことも数多く経験しましたしね。その反面努力が報われたときの喜びも味わいました。いろんな事情を抱えて働いている多くの女性との出会いもありました。

女性が働くことの厳しさや、社会の有り様も学ばせていただきました。「現場が稼いでいるんだ。」との思いは今も強く残っています。

現場で働く方にエールを送りたいと常に思っている私です。

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ABOUT ME
audreyh0504
自己紹介 もうすぐ73歳に 関西から半世紀以上前に関東へ 連れ合いが突然関東への転勤を命じられ 埼玉県や都内に住んで 今は千葉県 子ども二人はは関東育ち 関西弁は当然のこと関東弁は仕事がらですが いまだイントネーションは直りません

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