人間は権力を持つと、錯覚を覚えるものらしい。夕方の報道でさらっと映し出した車の中の岸田首相の満足げな笑みを浮かべた顔を見るにつけ、首相の椅子の座り心地の心地よさがうかがい知れます。
日本の戦国時代の徳川家康・織田信長・豊臣秀吉の権力は小説などで語り継がれていますが、その生い立ちや戦績を物語としてみているだけの今だから「ふ~ん、そうなんだ。」で終わりますけれど。兵として農民から駆り出されて亡くなった人々のことは何も語られることもなく土に帰ったということなのでしょう。
同じ人間としてこの世に生をうけても。
ウクライナの兵士は自国を守る使命をもって最前線に立ってロシアと戦っておられるんだと思います。家族を国を守るんだと。
連日ウクライナの惨状を報道で見るのは胸が締め付けられる思いです。ウクライナの青と黄色の旗が亡くなった方の墓標として林立しているのも。泣く泣く戦禍のただなかの家を出ていかざるを得ない人々の様子。ロシアに連れ去られた子供たちの安否等。
権力とはいったい何なのでしょう。莫大な金・自分に反するものは最悪抹殺する非情さ・自分以外、もしくは自分の家族以外は人間にあらずとするおごり高ぶった、どこからくるのかしれない恐ろしい感情。
ある種狂っているとしか思えない感覚を徐々に持ってしまうに至る人間の怖さ。それは大なり小なりの違いこそあれ、現代も身近にある恐怖です。
今の日本の裁判官の判断にも違和感をもつのが多くなった気がしています。ある程度の地位や知名度がある被告だと拍子抜けするような決定がなされているように感じるのは、私の無知からくるものでしょうか。
何度も書いて恐縮ですが、千葉県の長生村の議長が辞職勧告を受けながらも居座ろうとする図式。それも「裁判官はお酒はやめるようにとはいったけれど、議長はやめるよう言わなかった。」などと77歳の人の発する言葉とは思えない言い訳。言い訳にもなりえませんけどね。
権力にも大小がありますが、小さいならまあいいかとはなりません。怒鳴るなど大声で恫喝するのが通例です。その恫喝に脅されて周囲の人々が委縮していては、その人間の恫喝に屈しているのですから。ますます増長していくのを見ることになるでしょう。
それでも権力欲が尽きることがないのが、人間の性であるならいずれ破滅に至るのではと危惧を覚えるのです。
また時代をさかのぼって「赤穂浪士」の話が語り継がれるのは諸説あるにしても、江戸時代であろうとも権力の理不尽に対する怒りの仇討ちに対して庶民はやんやの喝さいをおくったのではないでしょうか。
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