私の連れ合いは三男坊です。末っ子でもあります。
今年8月に亡くなったすぐ上の義兄が在りし日の言葉「俺は弟が羨ましかったよ。」を義姉から納骨の後の昼食時に聞いたのでした。もちろん初めて。
28歳で戦争未亡人になった義母は結核で寝たきりの祖父と、祖母、3人の男の子を食べさせていくために自宅で収入を得る仕事を模索して山あり谷ありを生きた女性でした。
我が連れ合いは戦死した義父に良く似ていたようです。末っ子だからか、父を知らない故か叱りながらも義母は愛情をかけていたんだと、私は思うのです。だから、義兄は末っ子である我が連れ合いを可愛いと思いながらも、妬ましくもあったのではないかと。
タフな母親に育てられた連れ合いは、どうも仕事以外の家庭のことは全て私に任せっきりでして。私を母親のごとくに勘違いしている節がありまする。おおいに。
連れ合いの自転車のタイヤの空気が減っていると、つい私も自分の自転車のついでに空気を入れたりしてしまい。車に乗っていた時は洗車からエンジンオイルの交換から私がやってしまっていたりと私も若いころは苦ではなかったのでした。が、それが当たり前になっていたのは、今にして思えばいけなかったのかも。
一昨日も「自転車が重たい。」と連れ合いがブツブツ。思わず「自分の自転車のタイヤくらいは自分でしてください。」と私。もう母親役を卒業しなければと。
ところが、です。最近同じ録画を何度も観ているので「これって観たよね。」と尋ねると「いや、観てない。」とのたまうことが増えてきていて。これは大丈夫か?と恐怖を覚えるのです。まだ静かなバトルならいとわないのですけれど、ね。
出来るだけ「未知なる脳」の領域を刺激するべく、バトルを模索中なのであります。
そう言う私は財布を持たずに(忘れて。バッグを変えると良く忘れることが)出かけたことが二度あって、そそっかしいのか?危ないのかしら(*_*;
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