第二次世界大戦末期にに原子爆弾を広島と、長崎に落として、アメリカは戦争を終結させようとしたのでした。
人間が作った一番恐ろしい爆弾を地球上のそれも日本の二つの都市に落としたために多くの人たちが、大人も子どもも焼けただれて亡くなったのです。
その悲惨さは広島で知ることができます。
敗戦の前には日本国内で食べられない次男坊や三男坊は満州に開拓に行けと日本国からの命令を受けて、農業をするために開墾をして働いていた村があったのです。敗戦後もソ連兵が襲ってきていたそうで、村民全てが自決したりと、生きて日本に帰るためにソ連兵と取引をした黒川の人々の話が映画になったと報道されていました。
そうでもしなければ、全員で自決するしかなかった時代のことでした。独身の18歳以上の娘さんをロシア兵の「接待」に差し出すという、うら若き女性を説き伏せて、村の他の人たちが生き残るために血の涙が出るような決断を迫られた若い娘さん達の恐怖の体験はこの世の地獄だったことでしょう。
性病にかかって、4人の女性が満州の地で亡くなったとのことです。
今は亡き作詞家の[なかにし礼」さんは、そうした満州からの引揚体験の生き地獄を経験して「人形の家」という歌を歌手の弘田三枝子さんに提供されたんだそうです(1970年リリース)。決して単なる失恋の歌ではなかったと知ったのは、なかにし礼氏が亡くなる少し前にいつまでも消えることのなかった苦しみを話されるのを聞いたから。
国から満州へ行くようにと言われて行き、敗戦になったら自分たち農民だけで満州の地を生き延びて日本までたどり着けという非情なまでのお上の仕打ちに、なかにし礼さんは日本という国に捨てられたと思ったと語っていらしたのでした。
男女の別なくとはいっても、女性、それも若い女性の身の上に起きたことは「生きて死す」に等しい酷なことでした。
女性だというだけで背負った十字架の重さにつぶされそうになったことでしょう。
今現在の「乙女」たちはとりあえず平和な世界で、自分ですっくと立ち、歩みたい道を進んでいってもらいたいなと切に願っています。
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