「新聞」をいつまで届けてもらうのか、は常に悩みどころではあります。
「もう、止めよう。」と思ったこともありましたが、思い直して今も。
新聞紙って、何かの折に使うのよね、と言ったら、新聞記者の方は肩を落とされますでしょうね。
眠れないで、グダグダとベッドに横になっているとき、ドアに新聞をはさむ音がして「ああ、働いている方が。お疲れ様です。」と思うのはいつまでかしら❓
新聞を開いてまず読むのは、読者の投稿欄なのです。次いで記者の方のコラム。でも、なぜか新聞という媒体に愛着があるのは長年の習性からでしょうか。
今朝の新聞に入っていたチラシ。「招待状」という文字が目に飛び込んできまして、思わず大きな声で笑ってしまいました。
「霊園からの招待状」でしたので。
いよいよ、「霊園」も近くなってきたものねぇ。私は必要だとは思ってはいないのですけどね。
近くのスーパーマーケットのチラシには「今月からチラシを減らします」とのお知らせが~
最近つくづく思うのです。
「物価高騰なれど、サービスは減少の一途かな」と。
「コストパフォーマンス」略して「コスパ」ばかりが先行している世の中にて。
「新聞少年」という歌がよみがえってきましたけれど、近ごろは「新聞おじさん」だったり「新聞お姉さん」かもしれません。私の娘も高校生の時の夏休みに、この集合住宅だけの新聞配達アルバイトをしたことを覚えています。
「新聞紙を昔は畳の下に敷いてたんやけどな。」と連れ合いの言葉にセピア色の写真が浮かんできます。
お若い方はご存じない貧しかった、あの時代。
でも貧しいと思ってはいませんでした。
小さな町で、ささやかながらも、ひもじい思いもせずに暮らせていたんですから。
冬には火鉢で暖をとりながら。。夏は家の前の道に「縁台」を出して、うちわで風を呼び込んで、想い出が美化されるのは、私がおばあさんになったからでしょうね。
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