月曜日に録画していた「100分de名著」を昨夜見たのですが。
『死ぬ瞬間』 E・キューブラー・ロス著 でした。
今 感じていること、そのもの、そのこと。
こんな医師がいてほしいと、切に。
疾患を診て、にんげんを見ず という言葉を聞くようになって結構経ちます。
この著者のことを「医師としてはアウトロー」だと話していらしたので、こうした医師は少ないということでしょう。
誰にも必ず来る「死」にどう向き合えるのか。
向き合う、なんぞわからないまま「死」に至るのか。
一人で生まれて、ひとりで「死」を迎えると言われます。
が、生まれるときは「母」がいます。
死ぬとき、医師だけ❓ もしくは全くの「ひとり」こればかりは予想不可。
昨年の夏、亡くなった連れ合いの4歳上の兄。
その兄亡き後、1年数か月をひとりで暮らしてきた兄嫁、お義姉さんが「食べられないし、具合が悪くて、横になってるのよ。この前、娘に大学病院に連れていってもらったんだけど、あちこち回されて最後は脳神経科だったの。「うつ」ってことかしらねぇ。」と電話での会話。
義兄亡き直後には「先に死んだもの勝ちね。」ともおっしゃっていらしたのでした。
80歳の義姉は私に「80歳になると、ちがうわよ。あなたはまだ70代だから。」と何度もおっしゃるのです。
山登りのごとく、なだらかな山道から急峻な頂に向かうが如し、ってことなのでしょうか。
生まれてきたときから、行きつく先は決められていたのです。
そのことに触れないように、もしくは「それどころか、今が大変!」とばかりに生きてきたと振り返るのか。
このようにパソコンに打ち込んでいる今、まだ生きていて、朝食も食べました。
我が連れ合いは、ひとり病室で帯状疱疹が酷い腕に包帯をグルグルと巻かれていると、電話にて。
100歳の父とも一昨日、電話がつながって話すことができました。
「もうお迎えにきてもらっても、ええんやけどな。思うようにいかんわ。」と話す父は、身体のどこも痛くもなんともないのだと。
生命の、人体の不思議を思わずにはいられません。




