松山千春氏の歌ばかり歌っていましたねえ。ちょうど彼の歌が出てきてぐんぐん上昇気流にのり始めたころですねえ。カセットをセットして彼の歌を流しながら、歌いながら家事をしてたものです。
あのキーの高い、張り上げた声で女心を歌う彼は、フォークソングのなかでもちょっと異色の歌手だと思いました。もちろん、井上陽水氏も独特の世界をもっていますし、あのころのフォークソングの歌い手さんたちは皆さん、個性がそれぞれ際立っていました。あの時代に青春時代を過ごせたことは思い返しても幸せなことでした。
私の友人で松山千春氏のコンサートに以前行ったときに、「彼はやたら政治の話を歌の間に入れすぎて、歌を聴きに行ってるのにイヤだったわ。」と話してくれたことがありました。確かに歳を重ねた彼は地元北海道の政治家鈴木宗男氏と並んでいるのをテレビで見ることがありました。
彼の話しかたがどこか媚びないというのも通り越して、横柄なようにも聞こえるのも気にはなってはいましたが、シャイな人にありがちなことかなともとらえていましたね。私はコンサートに行ったことはなくて。ひたすら、歌を聴いて歌ってただけなのでいつか彼の話し方の違和感も忘れていました。
「大空と大地の中で」も北海道に生まれた彼ならではの歌だろうと思い、好きな歌でした。「季節の中で」「長い夜」「恋」「銀の雨」等。でも、彼の生い立ちには全く思い至ること無く、今まできたんです。井上陽水氏の「人生が二度あれば」のようにご両親を思う歌もなくて、武田鉄矢氏の「母に捧げるバラード」で知る母上もでてはこないですから。
なんとなく、松山千春氏はどのような家庭環境だったのだろうと検索してみて、お父さんが一人で新聞を発行していてお金にはならず、お母さんが経済面を支えるために働いていらしたということ。兄弟4人の内、お兄さんは3歳で肺炎で亡くなって、お姉さんも40歳代でがんで闘病後に亡くなられたと。お父さんはご自身の発行する新聞で市長の不正を暴いて、ますます生活が苦しくなったと読んで、すごいことをされたお父さんだと思う反面、お母さんや松山千春氏兄弟の生活の大変さは想像を絶するものだっただろうと思いました。
小さな町で当時市長の不正を暴くというのは、とてつもなく性根が座っていないと出来ないことですから。今だってなかなか出来やしないんです。
連れ合いが少年だったころに田舎の町でやはり市政に関することか何かが起きて、それは決していいことではなく悪い事をした人だったようでした。こどもだった連れ合いには詳しいことはわからないまま、町で罪を軽くしてもらえるようにと嘆願書が回ってきたそうです。町の人は悪い事をした事実は知りつつご近所付き合いで「私は書きません!」と言うことも叶わず、嘆願書が通り「無罪放免」になったらしいと。こども心に「おかしいだろう!悪いことをしたような人をたすけるのは。」と思ったんだと昔を振り返って言っていたことを思いだしました。
それぐらい、不正をしたことを真っ向から暴くというのは出来ることではなく、良いのか悪いのか(私は良いとは思えませんが、その場に立ったら相当な覚悟がいるのはわかります。)町の人の良く言えば「温情」悪く言うと「事なかれ主義」に流されるというところでしょうか。
だから、松山千春氏の父上が覚悟の抗議をされたことに驚くとともに母上の影のご苦労も並たいていではなかっただろうと思いました。大抵、そうした行動をとると潰されるのが目に見えるような世の中の図式です。でも数年の裁判の結果、勝利を手にされたとあります。こんな短い文章では計り知れない辛苦の時代だったのは想像にかたくないです。
そういった家庭環境で育った松山千春氏。こどもは親の背中を見て育つと言われますが、親になるというのは大変なことなんだとこんな遅まきに痛感させられました。(歳とともに何も知らないでこどもを生んだものだと自分自身思ってはいましたが)まさに「人生が二度あれば」の心境です。
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