父の頭が鮮明な今、私の思いのたけを父に話していました。電話ですけれど。気がついたらね。
私が10代の頃、母とは相性がよくなかったことも。母は根っからの職人気質の天才的だと思えるほどの洋裁と和裁のプロフェッショナルでした。洋裁は自分で習得して、和裁はおひげの立派な男の先生に物差しでピシャリと叩かれながら覚えたとおヒゲの立派な男の先生の写真も見せてもらいましたわ。芸者さんの着物は独特で襟を後ろにグイと抜いた着物なのですが、その芸者さんの着物も縫えるんよと自慢していました。すべて習得したのはすごいことだと尊敬します。今も。
着物は一針一針手縫いです。私が高校受験の勉強をしている傍らで薄暗い電灯の下で老眼鏡を鼻眼鏡にしながらコツコツとひたすら縫っていましたっけ。
「夜は黒留袖なんかの黒い着物は見づらいから疲れる。」と言いながら。
父との電話での話で「私はお母ちゃんとは相性がようなかったからなあ。」と言うと「せやったなあ!ほんまにようなかったなあ!」と言うではないですか。この歳にして初めて聴いた父の言葉でした。そうなんや、なんにも言われなかったけど、それはわかってたんや!と。(当たり前なんですけどね。狭い家のひとつ屋根の下でのことなんですから。)「せやけどなあ、歳とるほどにお母ちゃんのことを思い出すんやわ。少ない食費のなかで工夫をしてミルフィーユカツレツなんて洒落たカツを作ってたし。あの当時に。洋服のセンスもみんなお母ちゃんから受け継いだもんやしなあ。お母ちゃんのあの美的センスは天性やったんやろうけど、モダンやったから。」と私。
母が亡くなって10年経って母のあのすばらしい才能には脱帽してしまうばかりなのです。
ただ、女らしい人でした。本来は女性が「女らしい」のはとてもいいことなのですが、どうしてか私はその部分に拒否反応がでてしまっていました。
その上に「息子可愛い!」が全面に出ていたのも強烈でしたので。娘は可愛いという空気は感じられず、そのこともハッキリ口に出して言っていました。女性でしたねえ。私はその母が反面教師になってこんな可愛げのない女になったのではと自問自答しています。
ですが、97歳の父に「親子でも相性はあるんよ。せやけど、どんどん思い出してくるんよ。やっぱりお母ちゃんあって今の私があるんやと。」と話せたこと。父とふたりで母の思い出話ができたことは幸いなことでした。
心なしか父の言葉もウルウルとした口調になっていたようでした。97歳にして思い出す亡き妻の話に。
私の偽りない言葉に空の上から母も少しは「そない思うてくれてんのん。せやったらよかったわ。いろいろあったけどなあ。」と言ってくれているのではないかなと願っています。
お母ちゃん、おおきに❣ 堪忍やでm(__)m
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