私が使っているのは「ラインアプリ」一つだけです。それ以上の必要性を感じないので。
直接お会いして話す、もしくは電話で会話できれば充分なのです。
その「ラインアプリ」も「既読がついているのに、返信がこない」ことが気になって仕方がないという若い人が多いと以前話題になっていました。
先日、私と娘がそれぞれの駅から電車に乗り合わせて都内にでかけたときに「ラインアプリ」でやり取りしながらでした。娘から「遅れるので、待っていてくださいね」とラインメールが来た時「はい。わかった。」と胸の中で承知して駅のベンチで待ちました。
少し遅れて娘が電車から降りてきて開口一番「どうして、返信をくれなかったの?ハイ・一言でも。怒っているのかと思ったわ。友達なら返信してくれるわよ。」と。
娘のパートナーが「お母さんと友達とは違うんですよね。」と取りなしてくれたのですが。
その一件を経験して「返信をしないと、相手は推測をしてしまうのね。例え娘であってもそうなるんだったら、小学生や中学生世代は大変なわけよね。」と気づかされたのです。まあ確かに、私が胸のうちで「わかったわ。」と思ったとてその思いが空を飛んで娘に届きはしないのですよねえ。言葉足らずだったということですけど。
ですが、私は若い人のように文字を打つのが早くないのです。人差し指や中指で打っています。若い方が電車内で打っておられるのを見ると、両手の親指で早いこと!私には到底真似のできないことですわ。
娘に若い方の親指使いの件を話したら「いいのよ。お母さんの打ち方で。」と言ってましたけど。親指の速い打ち方の悪影響が出ているとか、娘が言っていましたっけ。
今こうして文章の最後に「。」を入れるのも、「まる問題」と話題になっているそうで。
「まる問題」の意味が全くわかりませんでしたけど、短歌の俵万智さんが「日本語は丸で終わる優しい文章なんです。」とコメントされているのを見てようやっと了解したのと同時に「さすが!俵万智さん。」と表現力に感嘆符でした。
それから知りましたね。日本語の文章に「まる」をつけるようになったのが明治時代だと。それまではなかったけれど、海外の文章に「,」があった故とか。違う解釈がありましたら、すみません。まさに!言葉は生きているんですね。
「世代間ギャップ」としか言いようがない現象かなと私。私は「。」を入れるのが自然なので、そうしているだけのことですし。「。。」と入れるときはもちろん意味があるのです。そう入れることで、気持ちの「揺らぎ」を表したいかなと。私の自己満足ですかしらねえ?!
さて、娘との「返信問題」があってから、私は絵文字で「Yes!」とか「了解!」と送るようにしていますけどね。
Facebook(今はメタですか)・Twitter(今はXね、Xは私は好きな呼称ではないですけどね)Instagram などの弊害が大きくなって、アメリカで訴訟沙汰になっている報道を見たとき、見ず知らずの人とそんなにつながる必要を感じてなかった私には「便利は不便と思ってきていたけど、便利をは不便を通り越して、便利は危険と隣り合わせなのね。」としか思えませんでした。
「AI」も危険な領域に突入していますしね。悪用しようと考える人間がいれば、それらを武器にして傷つける・搾取するなどできてしまうのですからね。どれだけ警戒網を張り巡らさないといけない時代なのかと、空恐ろしくもなりますねえ(Q )) ><ヨヨ
================
にほんブログ村「団塊の世代」カテゴリーのランキングに参加中です。
いつも応援クリック有難うございます♪