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ラブレター

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 カンツオーネに魅せられ、いつからか「イタリア」へ行くことが夢になっていました。

イタリアへのラブレター♡

初めてのイタリアは30年前、保険の仕事をしていたとき、上司に「ノルマを達成したら、行っていいよ。」と。

その時は旅行会社に既に予約していました。若かった勢いか、行きたい思いがそれだけ強かったのか、今思い出してもよくノルマをこなしたものだと!

一番安い12月初めの8日間の旅。ミラノ、ベネッチア、フィレンツェ、ローマ、駆け足で回る定番のような旅でした。私の顧客であった女性が「行きたい!」と、キャンセル待ちで見事(彼女はハワイにはしょっちゅう行ってた人で、ヨーロッパは行っていないと。)一緒に行くことになりました。

アリタリア航空の機内で(私が手持ちに持って行ったバッグが思いのほか小さくて、不自由だったので。)バッグを買おうとキャビンへ。イタリア人のスチュワーデスがフェンディのナイロンバッグを手に「バイ?」と。「バイ?」って何?!きょとんとして、固まっていた私に、私の後ろにいらした紳士が「買うのか?と聞いてるんだよ。」と教えてくだすって「ああ、You,buy?]なんだ! と、珍道中の始まりでした。

ミラノに着いたその夜、ホテルでの食事も済み、彼女が先にバスタイム。と、突然!ホテルのドアをガンガン叩く音が!!

「セクレタリー!セクレタリー!」と男性が叫んで(私にはそう聞こえたんです。)

海外旅行初めての、初めてのミラノのホテルでの夜。「セクレタリーって秘書だっけ?とにかく、彼女はお風呂で、私一人。開けるのは危険!」とっさに思ったことです。いくら、ドアを叩かれようと、男性が叫んでいようと、開けませんでした。添乗員に電話して状況を説明した結果、「それはフロントの人ですよ。」と。

実は、後でわかったのですが、彼女がお風呂の中の垂れさがっていた紐をひっぱってしまい、それが「緊急時に使う紐」だったということでした。フロントの男性には申し訳ないことを、結果してしまいましたが。ドアを開けなかったのは、その時最善の処置だったと、その後の海外での事件を聞いたりして確信しています。

ハワイとヨーロッパでは違っていたようで、「何、これ?」と軽い気持ちで彼女はひっぱったようでした。

強烈な旅の始まりでした!し、語学力の無さにガーン!!でもありましたね。

とはいえ、ミラノのドウオモも、フィレンツェの丘から見渡せた赤い屋根の家々の景色も美しく、ベネッチアのゴンドラもテレビでしか見たことがなかったもの。30年前は市街地のホテルに泊まれまして(安い旅でも)、ベネッチアのホテルには船で入りましたので、窓の下に水路が見えましたね。明け方、早起きしてサンマルコ広場、霧にもやっているサンマルコ広場に1人で歩いて行ったあの感動は今も残って消えることはありません。彼女は「寝てるウ」とベッドにもぐりこんでいたので、一人での思い出!

ローマ、あのローマ帝国のローマ!

ローマに泊まった翌朝、同じツアーの人達3人の女性がタクシーでバチカンに行くというので、これもまた一人同乗させてもらいました。バチカンでは一人でシステイ―ナ礼拝堂を見てまわりまして、座っていたイタリア人(イタリアだから当たり前。)のお爺さんに「アーュージャパニーズ?」ときかれました。これは、分かりました(笑)さすが、イタリア男!「ユーアービューティフル、ジャパニーズ!」ときました。私も若かったですからね!!まだ。覚えたてのイタリア語で「グラッツエ!」

今振り返っても、どうやって一人でシステイ―ナ礼拝堂に入って、帰りは一人でタクシーに乗り、ホテルカードを見せて無事ホテルまで帰り着いたのか、思い出せないのです。なんとかなったんですね。と共に、ラッキーでもあったのでしょう。

ジプシーが日本人の観光客を狙っているからと街中をツアーで歩く時、がっしりした体格の警官OBが横をずっと付いて歩いていましたので。

テンション上がりっぱなしだったんでしょうね!

何十年経とうとも、この最初の感動は私の宝物!

その、イタリアが新型コロナの災禍に見舞われて、無惨な光景になるとは、、

あのフレンドリーな国民性や、家族の絆の強さ、国際的な諸条件が引き起こしたとはいえ、です。

イタリア、私の憧れの町々!遺産が古代を想いおこさせてくれる国。

また訪れたいと思わせる国。

どうか、コロナ災禍が治まって、元気で明るいイタリアにもどりますようにと、祈るばかりです。

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