高校生だった半世紀以上前から私を突き動かしてきたものは、好奇心。
好奇心とは❓と思うのも「好奇心」ですかね。行ってみたい、やってみたい、聴いてみたい、見たいとムクムクとどこからか湧いてくるもの。理由は分かりません。自分でも不思議だと思うのですが。
世の中は歳を重ねるほど知らないことの多いことに気づくばかりです。全てのことを知りうるはずもないですが。
自分のことも、日本のことも、世界のことも、地球のこと、宇宙のことも。にんげんとは❓と興味は尽きなく広がっていくのです。これは私にとって必要な歳月の積み重ねがあったからこそだと最近しみじみ思います。
さして勉強しなかったゆえ、今頃になったのかもしれないですね。
面白いほどに知りたいことがでてきます。そのくせ英語の学習では集中力と記憶力の無さに自分で悔しくなっているんですけどね。
先日も娘と英語の学習について話したときに、娘が20歳代でどれほど集中して努力したかと話すのを聴きました。彼女はその頃一人暮らしをしていたので親として知らなかった彼女の頑張りには平伏しましたわ。働きながら夜に語学学校に通っていたのは聴いてはいたのですが、あれほど真剣に仕事と勉強に打ち込んだことはあの時くらいだったと言っていました。
娘は一つの道を突き進んでいったんだと、常々娘の言葉には納得することが多かったのです。その根底には彼女の運動の部活動での頑張りや、山歩きをしていた大学生時代の山や自然と向き合った感動を持ち続けている娘が発する言葉には説得力があるからだと思っています。1年間のカナダでの語学漬けの生活も多くは話さないのですが、欧州や多くのアルファベット系の国からきている人の多い教室で疎外感にお手洗いで泣いたとはボソッと言っていましたっけ。
息子は息子で18歳の若さのゆえの反発から新聞奨学生に申し込み、1年間の新聞配達を都内で一人暮らしとともに経験して、いろいろと彼のなかでは葛藤があったと思います。親子というのはつくづくお互いの外での顔を知らないものだと思います。彼は彼なりにイヤなことも楽しいことも経験しながら自分を構築していったんだと思っています。
こんな私にも娘と息子の二人を与えていただいことに感謝しかないですね。全く、違う感のする子どもたちですがそれぞれに良い刺激や示唆を与えてもらっていますのでね。
「お母さん、言語というのは深いんだよ。外国語に憧れているのはわかるんだけどね。私自身も英語を使う機会が減って来てどんどん失っていってるんだと思うからさ。」と娘ははっきりと思いを伝えてくれるのです。どんどん私の頭が下がっていくんですねえ。でも、英語の学習は「女の意地」で続けていきますけどね。頭を叩きながら。「おいおい、しっかりしろよ!」と自分にね。
息子は「学んだ英語をアウトプットしないと身につかないんだから、ブログにも活かしていけば?」と言ってくれましたが。「アウトプット」できるほどまだ身についていないかなあ?!
こんな好奇心の塊の変な女に神様はこんな配慮をしてくだすったんだと、思うこの頃です。
生きてきて得られた最大の喜びです。子どもたちの成長を見られたことは。
好奇心はにんげんの不思議さの追求、そのものですかねえ。子どもたちから教わるのは。
とりとめのない話になりましたが、にんげんは摩訶不思議な生き物だと決着しました。
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