未分類 PR

愚かな母の私!子どもたちにm(_ _)m

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

 「偉そうに?!」と自分に言わないといけない愚かな親なんですよね。私は。 

 息子が大学受験のころ、夕飯の食卓で息子と連れ合いが言い争いをしたのです。言い争いの内容は私が席を外していたのか、全く今もって不明なままですが。その時、息子が初めて激高して自分の部屋に戻る際に壁に拳をぶつけて穴を開けました。

 ふだんは暴力を振るうことなどなくて、論戦で来るタイプの息子がよっぽど頭に血がのぼったのでしょう。そうして年も明けていくつかの大学を受験して合格通知が届きました。同じ大学の中で3つの学部を受けたのですが、一番最後に「1つ受験学部が増えてもいいから、一番難関の学部を受けてみたら?」と私がいいました。「じゃ、そうする。」と息子。

 まあダメ元程度の認識しかなかった私でした。大学に行っていない私には大学はわかっていませんでした。東大や関西なので京大くらいしか名前を知らないレベルでした。ですから、娘もそうでしたが大学について相談をされてもわからないので、二人とも公立高校でしたから予備校に行きました。そんななかでその一番難関の学部の合格通知が息子に届いたんです。その時、後にも先にもない喜びのハグをしたのを覚えています。

 単に「ヤッター!」という達成感だったのでしょうね。息子にしても。私も「良かったねえ!」という単純な喜び、「良く頑張ったね!」という満足感。今から思うと、難関をクリアしたのはしたのですが、息子がその学部でどうしても勉強したかったのか?という大事なことが欠落していたのだと。

 いよいよ入学式も近づいた日に某新聞社の新聞店からの封書が届きました。知らないあいだに息子が「新聞奨学生」に応募をしていたことを知りました。学費は出さないなどとは全く言っていないのでしたが。思い返すと、連れ合いと言い争いのあとに壁に穴を明けた日に「こんな家になんかいるもんか!」と勢いで申し込んでいたのではないかと。そのときに、私は「学費を出さないわけでもないのに、やめなさいよ。」ともなにも言わなかったのです。どうしてなのか、言えなかったのです。私にもなぜ言わなかったのか、わからないまま今に至っています。あまりにも驚いたという(新聞奨学生に応募していたことに)記憶ははっきりとあるのですが。

 実際、学費は出しましたよ。ですが、息子は1年間都内で木賃アパート(共同トイレ、お風呂無し)で朝3時から都内で免許を取ったバイクに乗って新聞配達をやり通しました。家にいたときはいつまで寝ているのかという好き放題の生活をしていたのに、です。寝具とかの引っ越し荷物が届く日に息子と一緒に新聞配達店へ初めて行きました。若い女の子もチラホラといて、ちょうど夕飯のカレーを作っているところでした。店主の男性が「女の子の方が頑張ってるんですよ。つい先日来たばかりの男子学生が荷物も置いたまま、家に帰ってしまったんです。」と困ったもんだといった表情で言われました。「うちのも出来るのかどうか、わからないので、、」と口ごもった物言いになっている私がいました。

 私は関西の田舎からたまたまの転勤で関東に暮らしているという、いつまで経っても東京の大学近くの新聞配達店などとは馴染めるものではなかったのです。そのときはお上りさんに立ち戻っていたような、知らない所でなんとも表現が難しいですね、いまでも。まして、息子がそこで朝の3時から、家では乗ったこともないバイクで新聞配達をするという。大学合格通知から目まぐるしく起こったあまりの変化に戸惑っていただけなのでしょうか?数十年経っても、あの時の自分自身の気持ちを表す適切な言葉がみつからないでいます。

ですが、記憶にあるのはかすかに息子から感じられた「勢いで申し込んだけど、行くのかな?!」という気持ちのゆらぎ。気のせいかどうだったのかもわからないことですし、聞いてもいないのです。

 その後だったか、息子が生活していく木造のアパート(共同トイレのある)のベニア板のドアを開けたら木枠の窓が2つある角部屋でした。今思い出しても、どうしてそんな過酷な暮らしを辞めさせなかったのか?ふがいない母でした。私は何も考えていなかったのか?思考停止状態だったのか?いまだにそのアパートの生活に衝撃を覚えたのを忘れていないのに。いいえ、衝撃が凄すぎて実感がわかなかったのか?答えが出ないのです。

 息子と私は、息子が高校生のころは口論はありましたね。私も若かったですし、保険の仕事をしていたのでいつも気が張り詰めているような状態でしたから夜中までお互いに譲らないでいい合っていたのを覚えています。息子は忘れたのか、都内の生活から彼も生活が激変したので覚えていられないほど大変な経験をしたことと思います。

 彼がある程度の年齢になってから、ポツリと「新聞の配達はたいへんじゃなかったけど、集金に行かされるのがイヤだった。夕方に行くとついていた電気を消して居留守をされるし、何かを集金のかわりにくれと言う人がいたんだよね。」と。私は集金の人には暑い時は冷やした麦茶のペットボトルを渡したりしていたなかで彼は育っていましたから。19歳でイヤな経験をずいぶんしたんだなと「きつかったね。ごめんね。辞めさせればよかったのに。」の思いは湧いてきましたねえ。

 でも、彼はそのアパートからまだ肌寒い3月の夕暮れに私が地下鉄の駅まで帰路に向かう時、大きな交差点まで送ってきてくれました。その交差点の信号待ちで「じゃあね。」と別れた後坂道を下って行く息子の後ろ姿を私はずっと見ていました。彼は一度も振り返ることなく歩いて行きました。見えなくなるまで、その背なかを見続けていました。「やっぱり、男なんだなあ。振り返らないで。」(あの病弱で女の子みたいだった息子なのにと。今、70歳に手が届きそうな私ですが、あの春の夕暮れの都会の坂を振り向かずに歩いていく息子の後ろ姿はくっきりと焼き付いていて。歳ですかねえ。書きながら涙でグシャグシャになっています。あの頃の息子は私が泣くと「すぐ泣くんだ!」と怒っていましたが。遅い反抗期だったのか、それさえもいまとなってはわからないですが、このブログを勧めてくれた息子です。しなくてもいい苦労をさせたわねえ、と今のうちに謝っておきます!私は「して無駄なことはないのよ。」と言い逃れを息子に言っていましたが。)

 娘からも、「お母さんはずっと仕事で私がおさんどんしてたんだからね!」と。「もう、都合よく忘れてるんだからね。」とも言われますが、「はい、すみません。」としか言葉がありません。よくぞ、育ってくれたとしか言いようがない私です。娘からの究極の言葉は娘の結婚式でしたね。結婚式の全ては娘と婿殿が経済的にもです。親は一切何もしていないです。そして「我が家には父が2人います!」と列席の皆さんの前で言われてしまいまして、私の頭はズンズンとテーブルにくっつくほどに下がるばかりでした。(なにもここで言わなくてもいいでしょうに😢と)

 子どもたちに「育ってくれてありがとう!」感謝ですm(_ _)m

================

にほんブログ村のランキングに参加中です。いつも応援クリック有難うございます♪

にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ
にほんブログ村

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です