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日本の繁栄を支えた機械油にまみれた職人さん達はやさしい男たちだった!

 35年以上前、私が33歳頃に1年半ほど小さな鉄工所で原価計算の事務をしたことがありました。ハローワークで探したものでした。

社長のお嬢さんがされていた事務の仕事でしたが、ご結婚されるために辞められるとのことで、私が引き継いですることに。仕事はお嬢さんの指導のもとで覚えていきました。原価計算だとわかったのは退職してからのことでした。覚えることに必死でしたので。

プレハブの2階にある事務所は年配の所長さんと、総務の仕事をされてる私より年長の女性の3人だけでした。お嬢さんが辞められた後は。

プレハブの事務所から鉄の階段を降りると、大きくはない工場があり、旋盤工や研磨をしている方たちが7名位でしたでしょうか。その方たちが機械油のついた旋盤や研磨の工程表を持って事務所にみえます。その工程表をもとに計算をしていくという仕事でした。働いているおじさんたち(私がまだ若干若かったので)は皆さん優しくていい方ばかりでした。私は幼い頃から母の実家で母の兄であるおじさんが釣り針の研磨を一人でしている姿を見ていましたから、なんの違和感を感じることもなかったのです。それどころか、近しいものを感じていました。

機械油のついた工程表はおじさんたちの頑張ってられる仕事の結果そのものでした。今はもう忘れてしまいましたが、その工程表があっての原価計算、そして出来上がった部品は請求書とともに発注元に届けられるのです。

私はその頃、原付バイクで通っていたのですが、車の免許を働きながら取得するために仕事の合間に自動車学校に原付バイクで通いました。その頃の給与体系は日給月給だったので、自動車学校に行っている時間分はお給与は出ません。それでも納得していましたし、無事免許を取得したと報告をしたときには工場のおじさんたちも喜んでくださったのは忘れられない思い出です。

その上、若葉マークの私になんと!所長がご自分の車、トヨタのクラウンに私一人で運転して、出来上がった部品を結構遠方の交通量の多い発注元に持って行くようにとおっしゃたのです。まさかですよね!

関西の友人も18歳で免許を取り、車歴は長いし、車の運転はすこぶるうまいです。その彼女も「若葉マーク、免許とりたてほやほやにクラウンを運転させへんで。」と言ったものでした。

私は若かったのですね。でも、必死に渡された手書きの地図を頼りにその部品をトランクにいれて、発注元の工場まで届けて無事に帰ってきたんです。その時、心配して待っていてくださっただろう工場のおじさんたちが拍手で迎えてくださったことも感激しましたし、所長はじめおじさんたちの温かさを忘れることはありません。今も。

なんて、いろんな方たちに助けられて、今の私があることでしょうか。

ある意味、若さゆえ無鉄砲に飛び込んでいった職場で出会った多くの人たちから学び、ときには痛い思いをしたことも全て今の私を形成しているのだと思わずにはいられません。

人生、無駄なものはないという言葉は、私の信条になっています。

とはいえ、無鉄砲でしたかね(^_^;)私の生き方は。

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