未分類 PR

職人気質

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

 私の母方の祖父は 釣り針を手作業で作る 職人でした。

それが 母の生家の生業(なりわい)でした。

私が中学生の夏休みに まだ舗装されていない道路を土ほこりを舞い上げて走るバスに乗って、その辺りに1軒だけの 小さな なんでも屋さんの前にある バスの停留所(といっても、丸い鉄板に○○停留所と書いてあるだけの 棒が、コンクリートの足場を頼りに立っている)に降りるのです。

夏の日照りの中、3分も歩けば 祖父母の家のホッとする日陰の入り口に。

今も昔も セミはじーじー 鳴くのですね。

あれがなければ 夏の実感がわかないのだから、セミさん 絶滅危惧種になんか ならないで!!

祖母が いつも まあるい笑顔で 待っていてくれたものです。

何度も バスが来ないか?様子を見に 外に出ていたようでした。

それに しても、祖父とは 一度も話したことがないのです。

嘘のような、ほんとの話です!!

祖父の声すら 聴いた記憶が 全くないのです!

いつも 黙々と 釣り針作りをしていました!

祖父の近くにいったこともないので、詳しい作業も知らないまま、隣の部屋の古い 小さい引き出しの中の テグス と呼ばれる 釣り糸をいじってみたり。

当時 NHKの 朝ドラは 「おはなはん」

昭和41年 春から 翌年までの1年間 放映されていました。

「おはなはん」役の 樫山文枝さんが 愛らしかったのを 覚えています。

丸いちゃぶ台を囲んで、かまどで炊いたご飯と味噌汁だけの朝食を食べながら、みんなで見ていました。

これは 忘れることがないのです。だって、テレビはそれしか 見ていないから。

後は、同い年の いとこの 男の子「とっちゃん」が 丸くて小さな籠に 糸をつけて、雀取りの仕掛けを作ってるのを見たり。

細い木の枝を切って 釣り竿の代わりにして、小川に連れていってくれたものでした。釣れた記憶は無し、残念ながら ね。

釣れていたら 釣りバカになっていたかも?!

祖父が亡くなったあとも、叔父が一人で細々と 釣り針を作っていました。

火花、釣り針を研磨(後日、研磨と知りました。)する 火花が脳裏に焼き付いて残っています。

井戸につけて 冷やしたスイカを いとこ達(4人兄弟でした。)と 台所(キッチンとは違います!)のあがりがまちに腰掛けて、食べながら、スイカの種を かまどのある土間に ぺっぺっと 吹くのです。

お行儀が悪い? いいえ、これは 数少ない 当時の 楽しみの一つでした。断言します!!!

その後、ほうきで スイカの種をはきあつめて 掃除をした記憶が残っています。

ゲームもない、テレビも見ない、エアコンはもちろんない、家は古くて 床がきしむ(祖父の代は 祖父の生真面目さゆえ、大阪の釣り針問屋に納品して 信頼を得ていて、母は 中学生の頃 珍しい革靴を履いていたそうです。昔の職人気質の祖父だったのですね。)現代のこども達とは ほど遠い暮らし。

吉 幾三 さんの「てれびもねえ、~~もねえ(^^♪」の歌 そのもの!

テレビはありましたけど、まず そんなに見ない。ワイドショーは?なかったでしょう?!

私は それだけの記憶しかないのに、なぜか職人さんが 大好き!!!

かって デパートで組紐の実演販売の前から 動けず、職人さんとお話しし、職人展と聞けば 行きたくて、見たくて、、、

日本の職人さん、頑張ってほしいと ずっとエールを送り続けたいです!

もちろん、組紐 購入しました!

いまも 締めやすくて、涼しくなったら きものを着たいと思っています。

「日本の 民族衣装だから! 着てほしいわね。」と、着付けの先生はおっしゃっていました。

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です