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オシャレだった母がオシャレをしなくなった時から老け始めました(;_;)

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 母は昭和4年生まれでしたから、戦争中に青春を迎えました。もともと手先が器用に生まれついていたのか、戦後ファッション雑誌が出版されるようになると習いもしないで自分が着たい服を作って着るようになったようでした。母のいとこの私が「悩んでいます」で書いたおばちゃんが近くに住んでいらしたので、そんな母を見ていらして思い出話として私に「おかあちゃんは器用に洋服を作ってはったんやでえ。ほんまに器用やったなあ!」と。

 そんなオシャレな母でしたから、もちろん自分で作れてもしまいますし、ファッション雑誌も参考にしたり、デパートに行っては流行のデザインを見て作っていましたね。生地は生地屋さんに行って端切れでも気に入れば買ってきて、関西人ですから「これ500円の生地やで!」と出来上がった洋服を自慢していました。腕があればそんなふうに端切れからでもオシャレな洋服を作れるんだと思ったものでした。紳士のジャケットを縫い直すこともできたので、私が結婚してから連れ合いが着なくなった赤っぽい色のジャケットを私用に縫い直してくれたこともありました。洋裁でこれができないということがなかったのが凄いなと、私は傍観して感心するだけの娘でしたわ^^;

 私が高校を卒業して地元の銀行に勤め始めて少し慣れてきたころに「私があんたに洋裁を教えるのは無理やと思う。たぶん喧嘩になってしまうやろからな。」と洋裁学校に行くように勧められて行くには行きました。が、テーラード襟の型紙を作る段になって「ああ。面倒くさいわあ。これはイヤや。」で洋裁学校をやめてしまいました。今もはっきりと覚えています。なんと諦めの速いこと!まあ向いてないと見極めてしまったと言うか?!

なので主亡き母の洋裁用の部屋には今も布地や糸、動力ミシン、ロックミシンが残ってホコリをかぶっている状態です。もったいないことだと思います。母がさわれば生き生きとステキな洋服に替わる材料が眠ったままなのですからね。そんな母が歳老いて、寒い冬に私が帰省した時驚いたんです!あの母が!なんて格好をしているんでしょうと。私が編んだモチーフ編みの毛糸のちゃんちゃんこを着て寒さのためにいっぱい重ね着をして洒落っ気がなくなってしまっていたのにショックを受けました。別人のようになってと寂しくもありました。足を痛めてほとんど外出をしなくなっていたのもあり、だんだん面倒になっていったのかもしれませんね。寒いという季節も追い打ちをかけて。

 そうこうするうちに、母は弱っていきまして亡くなったのですが、もう10年以上も経ちますね。オシャレをするというのは自分を綺麗にしたいというだけではなく、気力もいることです。体力もいりますし。その中で気力、オシャレをしたいと思う気力です。背筋がシャンと伸びる気持ちです。その気持を持ち続けるにはもちろん体力も必要ですが。この近所でいつも手押し車のようなものを頼りに歩いておられる年配の女性はお帽子をかぶったり、スカーフをステキに巻いていらしたりとオシャレを欠かさずにしていらっしゃいます。そのオシャレして歩く努力を続けておられる姿にはいつも頭が下がる思いがします。私も見習って、オシャレ(お金はかけずともできますから)して歩かなきゃ!!😊 (写真のスカーフはもう20年、いいえもっと前に購入したものです。ダークな色の洋服が多い私が持っている最もカラフルなスカーフです。結構着ける機会の多いものです!オシャレって、気にいったものを身につけて良い着心地と自己満足ですかね^_^)今、気がついたのですが、コロナ飛んでいけ!のレインボーカラーのスカーフだったですね😊

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