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ポケットには帰りの電車賃だけの青春。 

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 「円」を書いていて、さだまさしさんの「案山子」を聞いていたら「金頼むの一言でもいい。」という部分に。

 我が連れ合いは高校をでて会社の寮に入り、たまには田舎の家に帰っていたようです。高卒で寮費や社食の食券代を引かれると、手元にはそんなに残らなかったそうです。それでも日曜日の映画は(3本建てだったとか?)みていたようです。

 子供の頃から自転車を走らせて映画館には通っていたと聞いていました。お母さん一人の稼ぎからの日々の暮らしの大変さは薄々分かってはいても、そこは子供のこと。映画代をねだってねだって、末っ子のやんちゃにお母さんが負けてしまっていらしたんですかね。

 今でも、連れ合いが言うには「家の前に映画のポスターの看板があるんや。それを見てたら行きとうなるんや。」彼の家から映画館は一駅くらいの距離があるんです。自転車を漕いで行くにも相当な熱量ですよね。確かに映画は最大の娯楽だった時代でしたね。

 私はそんなに映画館に行った記憶はなくて。同じ町なので映画館は2つしかなかったので、知ってはいるのですが。

 そんな18歳の連れ合いのギリギリの(映画を見なきゃよかったというと、身も蓋もないですかしらね。)暮らしのなかで田舎に帰ってご飯を食べてお兄さんともあって話してお母さんの顔を見て会社に帰るときに必ずお母さんが「お金はあるんか?」と聞いてこられたようでした。

 「ある。」と一言。実際は帰る電車賃だけが当時お財布も持っていなかった連れ合いのズボンのポケットに。(結婚した28歳の連れ合いはその時点でもお財布を持っていなかったですわ。現金をズボンのポケットにねじ込んでいました。)お金がなくても、会社では食券でご飯は食べられるからひもじい思いはしないと目算があったんだそうです。

 さだまさしさんの「お金頼むの一言でもいい」は、連れ合いの18歳の青春時代には到底考えもしない言葉だったんだと。

 映画代をねだった子供から成長して高校をでてからは、自分でやっていかないといけないという「もうおふくろに迷惑をかける訳にはいかないんだ。」と自覚が芽生えたんですね。高校も戦争遺児の奨学金をもらって行っていたようでした。その奨学金は返さないといけないものだったようで、全て返したとも言っていましたね。

 私も決して裕福ではなかったと思い返すのですが、連れ合いの暮らしはお母さんひとりの肩に全てかかっていたんですものね。田舎でしたから、働くところもない時代でした。いろんな仕事を、小さなミシン工場をやって九州から出稼ぎに来ていた女の子を2〜3人使ってやったりとか、駄菓子屋をしたり(蒸かしたさつまいもなんかも売っていたらしいです。若い女の子が買ってくれていたとか、当時が忍ばれます。)

 とにかく、その日のご飯を3人の息子に食べさせなければいけないのですから。お母さんはほんとうは大学にも行かせたいと、教育熱心でもあったようでした。連れ合いはその教育熱心さに悩まされたんだそうで、兄ふたりがすこぶる優秀だったのが裏目に出て、出来の悪い末っ子だとプレッシャーが重かったと今でも言いますよ。

 そんなことはないんですけどね。仕事はよく頑張ってやっていましたし、学校の勉強じゃない仕事の上での頭の働きは素晴らしいと私はわかっています。そのほうが実践で役立つのですから。遊ぶことも大好きでしたので、お酒と麻雀には呆れてばかりでしたけどね。

 まあ、そんな時代でもありました。その世代の人たちががむしゃらに頑張って少しづつ日本という国を豊かにして来て、今があるのです。

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