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手足は父に、顔は母。遺伝の不思議!

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 私の顔は歳を重ねるほどに母そっくりになってきたと自分では思うし、関西の友人も「お母さんに似てきたね。」と言います。ですが、父に「私、お母ちゃんに似てるやろ?」と尋ねたとき父は「似てへん。」との返事でした。意外だったけど、まあ父から見えていた母とは違うんでしょうかねと、思うことにとどまりましたわ。姿形だけではない、その人のかもしだすものはそれぞれ違って当たり前ですから。

 ただ、手足の大きさや形は紛れもなく父にそっくりです。大きくて、節々がしっかりとゴツくて、父は似てへんという顔も父の顔ではなく母に近い顔です。外見はそうなのですが、さて考え方やら中身はどうやら父に近いかなと思わざるをえません。もちろん、私がいままで歩んできたことの影響も加味されているのは当然あるとおもうのですが、根底に流れているのは父に近い?のか。よく俗に言われている関西人と関東の人との違いのような(そんなおおげさなものか、どうか?)少し、権力に対する反骨心(オーバーですかね?)が強いかも。単に私個人が持つものなのかもしれないですが。

 かたや、娘は手足の大きいところは私に似ていて足や手を並べてみるとそっくりなんです。でも、考え方は連れ合いに似ています。娘は彼女の父である連れ合いの思考回路がわかるとハッキリ言います。だから、「私はお父さん側だからね。」と「お母さんはわからない!」とまるで未知のエイリアンであるかのように私を評します(笑)⇒この笑いは「苦笑い」ですけどね。

 まあ、たしかに彼女の生き方を見ていると、それも納得ではあります。体力もあって、コツコツと確実に足元を固めて努力を惜しまず、辛抱強く生きてきています。私のような「出たとこ勝負」な生き方とは違って、冷静ですね。ですから、娘に叱られると、「はい、そうですね。すみません。」と言わざるを得ません。ここが、連れ合いとは違うところです。連れ合いに言われると、なぜでしょうか?カチンときてしまうのに。

 彼女のカナダでの自費留学時の話しを彼女から聞いたとき、マイナス20度まで下がる冬のカナダで、夜の学校からホームステイ先に帰るのに電車代がもったいないからと歩いて帰ったというのです。私は彼女の帰国するときに彼女が私を招いてくれて、その彼女がもったいないと乗らなかった電車に乗りましたが、結構な距離でした。マイナス20度でこの距離を夜に女性が一人で〜と思っただけで、どれほど彼女の生き方と強さが伺い知れるかというものです。私は頭が下がります。

 私はよく「この子を私、生んだのかしら?」と真面目に思うことがあるのですが。ですが、その彼女にも不得意な面もあって、やっと私の出番がくるときもまれにあるので、ホッとしますよ。

 このように、遺伝とは人体の中で人智の及ばない部分で起きているのですから、この世のことで人が出来ることはそれほどたいしたことではないのかもしれないと思ったり、してしまいます。宇宙にロケットを飛ばせても、その宇宙のブラックマターだ、ブラックホールだというまたまた巨大な不思議にぶつかってしまいますしね。人が素晴らしい努力をしているのには感嘆しますが、人体の未知なる世界と、それ以上の大いなる未知の中に生かされているんだと思ってしまいます。

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