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私は「変な人」自分でも思います。

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 連れ合いの戸籍の名前の漢字の件は元の「俗字」に戻していただくことになりました。市役所サイドが「正字」に知らない間にされたこととは言え、初めて市役所サイドとこんなカタチで真っ向から激しい口調になりました。 

 その経由を娘に伝えたとき、娘が言いましたね。「お母さんのそういうときの感じはわかるからだけど、変な人だと思われたかもよ。」と。

 一般的に日本人はおとなしい人種だとは常々私自身も思っています。

 娘は私のことをよく知っているので、「変な人」という表現が正しいのでしょう。私は納得のいかないことは「合点」がいくまで聴いて自分の思うところも主張します。この姿勢がおとなしいとされる日本人のなかでは珍しいと見られるのは理解できます。

 でもね、どう考えても「合点」のいかないことは言ってもいいと思うんですよ。あまりの衝撃に驚いている私たち夫婦に対して、市役所の出張所の職員の方の姿勢は「正字」にしただけと変わらず、解決策の見えない堂々巡りでした。

 そのどうにもならない「人民は弱し 官吏は強し」の壁に、星新一氏のスケールとは全く違いますけれど(^.^;

 このまま、80年近く使ってきた連れ合いの名前を変えないといけなくなるのかと複雑な気持ちに一瞬なりました。

 なのでいろいろ調べてみようと思ったのです。

 振り返れば、中学生ころからあまり群れることをしない性格でしたね。それを「変な子」ということもできるかもしれません。俗に年頃の女の子は「○○ちゃん、お手洗いにいこう。」といえば「うん。」と従順でキャピキャピしていて可愛い感じのイメージです。私はそういうことのまずない可愛くないタイプでした。

 「三つ子の魂百まで」なのか。幼い頃から病弱で外を走り回ったりすることもほとんどなくて、本を読んでいる感じでした。子供なのによく「悪寒」がして風邪を引いていることが多かった記憶があります。

 育った環境が大事とは聴きますが、私が10歳のときに祖父とおじを残して長男である父が家を出るに至った暗い淀んだ空気が漂っていたように思い出します。実際、裸電球がぶら下がっていただけの家でしたから暗かったのですが。そんな時代でもありました。そんな時代に親をみるべき長男が親を残して家を出ることもまずなかったと思います。父が気性の荒い祖父から母を守ろうと決意して両親で決めたことだったんだと後で子供の私はわかったのですが。

 祖父は孫である私にはなんていうこともない祖父でした。ですが、漁師でもないのに祖父は赤銅色に焼けていて背丈は高くないのに迫力のある人でした。半世紀も前に祖父を訪ねたら黒いサングラスをかけて道の向こうから歩いてくるので、一緒に行った友人が「えっ、あれがお爺さん?!」とドン引きしていた記憶が強烈に残っています。

 戦前に人力車夫をして貯めた蓄えを元に商売を起こして、大きな店にしただけの度胸や才覚は持ち合わせていたんでしょう。戦争を境に落ちて行った自分に苛立っていた部分も大いにあったことと今になれば理解はできる気がします。

 その祖父に私は似ているところがあると父から言われたことがあるのです。そりゃね、祖父の血が流れているのは間違いないですからね。

 どこが似ているのか、私にはわからなかったですが。

 人がご先祖様から脈々と受け継がれて生きているのは間違いないです。良くも悪くも。祖父ほどの才覚が欲しいとは思ったりもしますけれど。今頃、どこかで笑って見ているのかもしれないですねえ。おじいちゃんも、おじいちゃんが愛妾さんでよく泣かせたおばあちゃんと仲良くね😊

 (美空ひばりさんの「関東春雨傘」の「切れるもんなら切ってみな!さあ、さあ、さあ」作詞:米山正夫氏 が好きなのは、やんちゃ者だったじいちゃんの血が騒ぐからですかねえ(^_-)

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