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幸せに終わりを迎えられたら⭐💐

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 千葉に帰ってきて10日。引きずってはいました。胸がつまる感じで食欲もあまりなくて、さすがに体重も減少傾向に。でも持ちこたえていたんです。

 コロナ禍の夏に食欲がなくなったと弱った父に甘酒を送ったのです。甘酒は「飲む点滴」だそうなので。「冷蔵庫に入れて飲んでるけど、うまいなあ!ありがとう。」と喜んでもらえて元気にもなったようでした。それ以来折にふれて、まして歯が無くなって流動食になったらなおのこと。甘酒はいいですしね。

 千葉に帰ってからは電話も「かけ放題」に変えたのもありまして、「甘酒飲む?」と尋ねたら「ああ、飲むで」と。で、送る手配をしたのですが、さきほど「届いたで。たくさんありがとう。」と嬉しそうな父の声が。。

 その後、じわじわと熱いものがこみ上げてきて、、数十年ぶりに号泣してしまいました。父の1人息子でもあり、長男である私の兄弟に期待をもっていたのだと思います。父は大正生まれの人です。私に「女に学問はいらない。」と言い切った人です。そういう時代に生まれた男です。父は長男だけは下宿させて大学に行かせました。

 田舎ではまだ長男が〜という風潮が残っています。その長男が熟年離婚をして外国人と結婚した時、田舎の家では母が半狂乱のようになりましたし。私はまだ仕事をしていましたが、母からの泣きながらの電話に私としてできることは何もなかったのです。事態はもう決定してしまっていたのですから。親にも打ち明けずに、長男がその決断をして行動にうつしてしまった後でしたので。

 私は母の泣き叫ぶ電話に対応しきれず、膝から崩れ落ちるような精神状態になりました。私の力などでは何も変えられはしなかったので。仕事に行く気力もなくなるそんなことが続きました。

 その長男である兄弟が、この帰省の折にあくまでも自分を正当化する言葉をとうとうと兄弟の前で並べ立てて、挙げ句に父にわだかまりがずっとあるのだと言い出す始末。それでいて、父からお金は引き出しているという究極の甘えの構図。女兄弟と私は親に頼ることなく生きてきたのです。

 頼りにしていた長男がそんな状態なので、父も私に「息子とのあいだに隙間風がふき始めてなあ。」とポツンと言ったのです。

 そんなこんなの帰省でした。

 「甘酒が届いたよ。ありがとう。」と言う父の嬉しそうな声にこんな甘酒程度で、あんなに嬉しそうに言っている父を、父が97歳で置かれている状況を思うと涙が溢れてきて号泣してしまいました。もう既に胸の中に溢れそうに涙や思いが溜まっていたのだと自分でわかりました。

 精一杯、気持ちを強く持って新幹線に飛び乗ったのですが。日にちの経過とともに蓄積されていったようでした。行く前から「喧嘩はするまい!」と決めていました。言いたいことはありましたが。

 それでも、あまりにも自分を正当化してとうとうと喋る兄弟の言葉を黙って聴いているうちに、マグマのように腹の底から沸き上がってくるものがありまして。私は怒り心頭に達すると「どう表現したら」などは浮かんで来なくて、でも怒鳴りはしません。数年前にすでに高齢で病気になった父を「俺が子供としてほっておけなかったんだ。親父は歳も歳だからもういいと言ってたけどな。」とも長男は言っていました。言い終わった時、私は絞り出すように言葉を発してしまっていました。

 父が病気で死ぬのと、頼りにしていた息子に裏切られて死ぬのとどちらが辛いかと、思ったときに裏切られたと思いながら死ぬ方が辛いのではと思ったのです、私は。ですから一言「病気のときに助けて、いま97歳の親父を苛むのか!!」と腹の底から言葉が出たんです。反応はなく、水を打ったようになりました。私がかって仕事で土下座をしたときと同じでした。私は何も見ていなくて、心の内から今回は土下座ではなく言葉が飛び出したのです。

 もっと言葉を選べばよかったかと後から思いもしましたけれど、その時点では精一杯の私の心の叫びだったのだとしか言えません。

 私は連れ合いに女性問題があった時、何がこたえたか? 男女のことというよりも、もちろん嫉妬でもなく、人が人を裏切るんだという事実(これには異論がある方もいらっしゃるでしょうね。私は人にもまれる経験もなくお見合い結婚をして30歳。人生経験が足りなさすぎだったのでしょう。)に大きな衝撃を受けたのです。正直、その傷跡はカサブタができてまた剥がれて消えることはありません。その痛みがあって言わしめたとも言えます。

 千葉に帰ってくる前には友人ともおしゃべりをして楽しい時間を過ごしたのですが。1人でいるとどうしても考えてしまっているようでした。

 泣くときは泣いていいのだと、泣きながら思っていました。

 夕方、「何もしなくていい。俺がするから。」と連れ合いが言うので。(私が号泣しているのを見ていたので)

 笑い泣きになりました。自分のだけ、料理とも言えない代物でしたが、あくまでも連れ合いの分だけなのでね。これだわよ^^; こういう人に育てた私がいけないのかと苦笑いのみ。(連れ合いを産んだ覚えはないですけれどね)生活していく中で、伴侶を育てる必要性があることを忘れていた私の落ち度。

 おかゆの作り方も、なにもわからない人なので私は病院に入ったこともありましたっけ。70歳にして、いいえ70歳だからこその教訓です。

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